何故ストーリーを書くことが難しいのか。
実は、まとまった話をすることが難しいことと似ているのではないか。
まとまった話をするには、
その話が、なんらかの意味を持つ話でなければならない。
簡単なのは「主張」である。
論文やブログやスピーチは、
とある主張をするために、
まとまった話をする。
その意味は、新規の意味である必要がある。
既知で古くさいならば、
あまり意味はない。
つまり、まとまった話をするのが難しいのは、
新しく意味のあることを、
そもそも発見しなければならないことにある。
さらにそれを、
論を組み立て、なるほどと思えるようにしなければならないわけだ。
物語がこれよりもう一段難しいのは、
物語は主張をするためにあるのではないところだ。
形式的には、
とある事件を主人公が解決するだけである。
それは何も主張しない。
物語は「言いたいことを言う」ためにはない。
(これは沢山の人が誤解している。
物語を受けとる人も、道半ばの書き手も)
言いたいことを言いたいなら、
まとまった話を、論文やブログやスピーチですればいいだけだ。
ところが。
ここからが重要なのだが、
受けとる側は、
それが論文やブログやスピーチだろうが、
物語だろうが、
その形式に関係なく、
「まとまった話から、何らかの意味を受け取ろうとする」
という性質があるのだ。
だから、意味のない話は、
「意味がなかった」と受け止められ、
詰まらない話だったなあ、となるのである。
論文やブログやスピーチならば、
最後に主張を短くまとめて終われる。
しかしストーリーはそうではない。
あくまで形式は、
「とある事件を主人公が解決する」でしかないからだ。
ストーリーの意味とは、暗示である。
ベストのパターンは、
事件が社会的な問題と関係があり、
主人公の解決の仕方が、
これまでにない斬新で効果的な解決法である、
というものだ。
これならば、
解決されるべき問題を、
このように(新しい方法で)解決しよう、
という手本を示したという意味になる。
直接そう言わなくても、暗示でだ。
しかし毎回毎回、
そんなに上手い方法が見つかるはずがない。
それは一種の発明であり、
ストーリーテラーが毎回そのような発明を出来る保証はない。
(僕がずっと実写化を狙っていた、
「ビジネスコマンドーヤマザキ」という富沢純の漫画では、
毎回そのような発明をしている。
流石に時代が古くなり、
実際そこに描かれたいくつかの発明は実現してしまった)
真逆を考えよう。
「誰もが納得する、普遍的な価値観を再確認する」
というパターンもある。
勧善懲悪、信賞必罰や、努力が報われるとか、
定型のラブストーリーはこのパターンである。
王道といってもよい。
これをプログラムピクチャーと言っても過言ではない。
いつも一定量こういうものは必要だ。
安心するけど、新しくない。
長所は欠点でもある。
しかし観客は常に、「同じだが、新しいのをくれ」と言う。
(最近の東宝は全てがプログラムピクチャー化しすぎだ。
新しくない、同じものばかり作っている)
つまり。
ストーリーの意味とは、
王道と、発明の、間に全てがある。
尖ろうとすることは、
バッドエンドにしてみたり、
定型を崩したりすることで、
新しいことをしようとすることである。
これ自体は素晴らしいことだけど、
こうすると王道と発明の間にはまる、
何らかの意味を見いだせるものに、
まとまらないことがとても多い。
(静観中だが、おそらくファイアパンチはちゃんと終わらない)
尖ることで、意味のあるものから逸脱しがちだ。
理想は、尖った、発明であることだ。
そして王道にも落ちてるのが最高だ。
あなたはこれから2時間、スピーチをする。
どんなまとまった話をするのか?
どんな意味のあることを言うのか?
発明か?
王道か?(それは聞きあきた説教の危険もある)
その間か?
尖ったが落ちなしか?
そもそもまとまった話をするには、
その意味を考えなければならない。
それが、実は一番難しい。
(僕はCM出身で、実のところそこに気づくまで時間がかかった。
だってCMの意味は、なにをしようが「この商品は素晴らしい」という
落ちでしかないからだ。
映画は、それに落とさなくていいんだ、と気づいたとき、
逆に不安になった。
どこへ向かえばいいのだ?ということに。
それを見いださない限り、ほんとうは話を書いてはいけない)
難しいので、
初心者は、王道やプログラムピクチャーを書いた方がいい。
徐々にはずしを学ぶとよいだろう。
守破離だ。
2017年08月11日
この記事へのコメント
コメントを書く