2017年08月12日

話せば話すほど、新しいことが分かる

会話には沢山の役割がある。
しかし、会話シーンばかりで話が進まないということが、
とてもよくあることだと思う。
一方、会話劇だけで話を進めることも可能だ。

両者は何が違うんだ?
僕は、「新しい情報」に注目するとよいと思う。


人は何故話すのだろう。
おしゃべりしたいから、
という根源的な欲求があると思う。
(さる調査によれば、
女は一日6000ワード話さないとストレスがたまるらしい。
話し相手がいるだけで、
話の内容関係なく女は快感を覚える。
これをヤリチンたちはよく使う)

しかし単なるおしゃべりばかりしていては、
ボケツッコミばかりしていては、
話が進まない。
勿論お喋りは会話シーンの中でも楽しい部分のひとつだが、
そこで話の進行はストップしていることに気づくことだ。

(逆に言うと、二次創作は基本お喋りのみである。
ストーリーの進行は本編にあるから、
アナザーストーリーを進行させることが出来ないからだ。
さらに逆に言えば、二次創作の大半は、
本編のストーリー進行のために省かれた、
お喋りを創作するものだと断言してもいい)


話の進行とはなにか?
センタークエスチョンの答えに近づくこと、
とここでは定義しよう。

物語とは事件の解決である。
事件が起こり、解決に向かい主人公が踏み出したとき、
「○○は解決するか?」というセンタークエスチョンが投げ掛けられるはずである。
(明示か暗示かはストーリーによる)

それを解決に近づけるためには、
映画というのは行動でそれをなす。
映像で最も見映えがするのは、
行動(アクション)だからである。

だから話を進行したければ、
行動で進行させるといい。


会話劇に戻ろう。
会話だけでもストーリーを進行させられる、
というのが本題。

今話題になっている何か(焦点)が、
センタークエスチョンの解決に、
一歩進んだときに、
私たちは話の進行を感じられる。

それは、ほとんどの場合、
「新しい情報が出てきたとき」だ。


合コンをしたとしよう。
会話劇だけだとしよう。
センタークエスチョンは、お持ち帰りできるか?だ。
お喋りがたくさんある。
ボケツッコミもあるだろう。
しかし、その中で確実に行けそうだという進展は、
「今彼氏がほしい」「今夜は遊びたい」
「さみしい」などという情報を、
聞き出したときではないか?
ただのお喋りから進展にいくそのターニングポイントは、
つまりセンタークエスチョンに関わる情報が出てきたときだ。
(他にも、家が近いとか、趣味が似てるとかで、
意気投合する序盤があるかもね)


つまり。

会話劇だけで話を進めることも出来る。
センタークエスチョンがあるときに限り、
かつ、新しいことが分かったときだ。

逆に。

会話は、ただお喋りしていても無駄なシーンである。
会話の中で、
主人公が/他のキャラクターが/観客が/事態にとって
新しいことが分かると、
話の進行となる。

それがないシーンは、切って構わない。



(再び二次創作に戻ると、
その切られたであろう会話を、楽しむのが二次創作だ。
二次創作には、センタークエスチョンも、
新しい事実もないのである。もちろん極論をしている)



話せば話すほど、新しいことが出てくる。
それが理想の会話劇だ。
「11人の怒れる男」は、形式だと会話劇だ。
しかし事態はどんどん進展し、
二転三転するスリリングなストーリーである。

会話劇は、楽しいお喋りではない。
ストーリーでなければならない。

会話劇は、会話ではなく、劇なのだ。
posted by おおおかとしひこ at 23:10| Comment(2) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
11人だと一人足りないような気が…
Posted by kentya at 2017年08月13日 14:34
kentyaさんコメントありがとうございます。
また間違えたようだ。
キリストの弟子はいつも13人だと思ってしまう、教養のない俺。
どちらかというと「11人いる!」のほうに影響を受けているらしい。
Posted by おおおかとしひこ at 2017年08月13日 16:42
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