会話には沢山の役割がある。
しかし、会話シーンばかりで話が進まないということが、
とてもよくあることだと思う。
一方、会話劇だけで話を進めることも可能だ。
両者は何が違うんだ?
僕は、「新しい情報」に注目するとよいと思う。
人は何故話すのだろう。
おしゃべりしたいから、
という根源的な欲求があると思う。
(さる調査によれば、
女は一日6000ワード話さないとストレスがたまるらしい。
話し相手がいるだけで、
話の内容関係なく女は快感を覚える。
これをヤリチンたちはよく使う)
しかし単なるおしゃべりばかりしていては、
ボケツッコミばかりしていては、
話が進まない。
勿論お喋りは会話シーンの中でも楽しい部分のひとつだが、
そこで話の進行はストップしていることに気づくことだ。
(逆に言うと、二次創作は基本お喋りのみである。
ストーリーの進行は本編にあるから、
アナザーストーリーを進行させることが出来ないからだ。
さらに逆に言えば、二次創作の大半は、
本編のストーリー進行のために省かれた、
お喋りを創作するものだと断言してもいい)
話の進行とはなにか?
センタークエスチョンの答えに近づくこと、
とここでは定義しよう。
物語とは事件の解決である。
事件が起こり、解決に向かい主人公が踏み出したとき、
「○○は解決するか?」というセンタークエスチョンが投げ掛けられるはずである。
(明示か暗示かはストーリーによる)
それを解決に近づけるためには、
映画というのは行動でそれをなす。
映像で最も見映えがするのは、
行動(アクション)だからである。
だから話を進行したければ、
行動で進行させるといい。
会話劇に戻ろう。
会話だけでもストーリーを進行させられる、
というのが本題。
今話題になっている何か(焦点)が、
センタークエスチョンの解決に、
一歩進んだときに、
私たちは話の進行を感じられる。
それは、ほとんどの場合、
「新しい情報が出てきたとき」だ。
合コンをしたとしよう。
会話劇だけだとしよう。
センタークエスチョンは、お持ち帰りできるか?だ。
お喋りがたくさんある。
ボケツッコミもあるだろう。
しかし、その中で確実に行けそうだという進展は、
「今彼氏がほしい」「今夜は遊びたい」
「さみしい」などという情報を、
聞き出したときではないか?
ただのお喋りから進展にいくそのターニングポイントは、
つまりセンタークエスチョンに関わる情報が出てきたときだ。
(他にも、家が近いとか、趣味が似てるとかで、
意気投合する序盤があるかもね)
つまり。
会話劇だけで話を進めることも出来る。
センタークエスチョンがあるときに限り、
かつ、新しいことが分かったときだ。
逆に。
会話は、ただお喋りしていても無駄なシーンである。
会話の中で、
主人公が/他のキャラクターが/観客が/事態にとって
新しいことが分かると、
話の進行となる。
それがないシーンは、切って構わない。
(再び二次創作に戻ると、
その切られたであろう会話を、楽しむのが二次創作だ。
二次創作には、センタークエスチョンも、
新しい事実もないのである。もちろん極論をしている)
話せば話すほど、新しいことが出てくる。
それが理想の会話劇だ。
「11人の怒れる男」は、形式だと会話劇だ。
しかし事態はどんどん進展し、
二転三転するスリリングなストーリーである。
会話劇は、楽しいお喋りではない。
ストーリーでなければならない。
会話劇は、会話ではなく、劇なのだ。
また間違えたようだ。
キリストの弟子はいつも13人だと思ってしまう、教養のない俺。
どちらかというと「11人いる!」のほうに影響を受けているらしい。