2017年08月13日

自分は一番じゃないと知ること

これは本当に難しいことだ。
創作における作者は神だ。
神にならないと書けない。
その全能感が創作の喜びのひとつだ。
俺はこの世界をつくったぞ、と。

だけど、その熱が冷めて冷静になったとき。
それが大したものじゃないと気づくとき。
反動がキツイ。


あんなに全能感溢れて夢中でやったことが、
子供の遊びレベルだったと分かったときの恥じ入り。
これは多くの人が経験することだ。

いや、俺は一番なのだと狭い世界に閉じ籠ることで、
その矜持を保とうとする人たちもいる。
それは逃げだと、薄々分かってるんだろうけど。

自分が一番じゃないことを認めるのには、
勇気がいる。

日常生活で一番の人は、たぶん創作をしない。
一番になれないから、人は創作をする。
これなら一番になれるかと思って。

で、その全てをなげうって作ったものが、
大したものじゃないと認めることは、
人生の絶望みたいなことだ。

希望へのルートをひた走っていたのに、
それが奈落だと知ったようなものだ。
大逆転で大成功だと思ったものが、
大逆転で大失敗。
まるでミッドポイントだ。


だが、その絶望を知ったものは幸いである。
創作をしなければ、
一生味わうことのなかった、貴重な苦味であるからだ。
あなたの味わう絶望は、あなた以外の誰も共有できない。
だけど安心しなさい。
だから、あなたはオリジナルになるのである。

これは、他の人と似たような人生を歩む人には、
決して経験できない絶望だ。
創作は、オリジナルでなければならない。


本当のことを言うと、
そこが創作のスタートラインなのだ。
ようやく獅子の子が、千尋の谷底に落ちただけだ。
その谷から這い上がるか、谷底で諦めるか、
ここは谷底でなく天国だとうそぶくかは、
獅子の子の心次第だ。

私は創作者として無力な子供に過ぎない。
そう自覚しよう。

そうでないと、その先何も学ぶことがなくなる。

格闘マンガにたとえれば簡単だ。
敗北を知らない最強キャラは、
一回負けたら絶望で終わる。
早いうちに敗北を知れたキャラは、
それをバネにして成長する。
漫画だからこうなのではない。
現実も同じである。
ただ現実では、絶望した人は辞めていく確率が高い、
というだけのこと。


あなたの全力を尽くした作品はいまいちだ。
それがどうした。

改善すべきところは分かるし、改善するのもやぶさかではない。
しかし、それ以上に面白いものを思いついたので、
それを書こうと思う。

そうあるべきだと思う。



完璧で最上なものを書いたら、
それ以上の作家生活はない。
創作して生きることとは、
いつも過去の自分を上回って行き続けることを言うと、
僕は思う。

絶望した人は幸いである。
挽回のチャンスを、次回作に得る。
あなたはその為に今絶望の暗闇にいるのである。


これは、全ての創作者が経験していることだと思う。
自分は一番じゃない。
全てはそこからスタートしている。
だけど、次は一番かも知れない。
でも一番じゃないかも知れない。
でも一番のを思いついた気がする。
その繰り返しで、少しずつ登りつつあるのだ。

ある程度登ってくると、滑落したりもする。
常に登り続けられる保証もない。


こんなことを書いているのも、
ぼくは次回作を書き始めたからである。
ちょいちょいカタナ式記事で触れているが、
一万字も遊びで書いてる訳じゃない。



自分は一番じゃない。
でも作る。

過去に夢中になった名作を越えること。
見てなくて最近知った名作をも越えること。
過去の自分を越えること。
一番じゃないから、一番を目指すことが出来る。
その為に、登り続けられる。


敵は過去。それが未来だ。
posted by おおおかとしひこ at 13:54| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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