2017年08月14日

私たちは、狂気に理性で決着をつけなければならない

前記事の続き。

だから、多くの物語(もどきも含む)は狂ったまま終わる。
うまく決着をつけられなくてだ。
平井和正はそうした作家ではなかったかと、僕はかつて蹴りをつけた。
あの尋常ならざる妄想を、彼はついに理性で纏めきれなかった。
それは単なる狂気であり、人の知性ではない。

文明は、理性で構築される。
人は狂気を原動力とする動物的存在であるが、
狂気のまま終わるのは、動物でしかない。

庵野秀明は、狂気に終わった作家だと僕は踏んでいる。
エヴァは終わらないだろう。
シンゴジラも、夢想爆発は愉しかったが、
「それ、なんの意味があったのや」というところにおいては、
プロジェクトXのほうが勇猛なドラマであったというものだ。

狂気に触れて喜ぶのは、ただの動物だ。
私たちは文明を築くために、
その先を纏めなければならない。
たとえばアウトサイダーアートは、
私たちそのものであり、
同時に私たちと対極である。

夢は狂気に似ている。自閉症も統合失調も躁鬱も解離も、
心という意味では夢だ。
狂気を理性で着地することが、私たちのすることだ。
恐らく全ての芸術は、この両極を行き来するのだ。
posted by おおおかとしひこ at 13:05| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。