物語を見る理由のひとつは、
高揚感、ないし全能感を味わいたいから、
というのがあると思う。
普段の私たちは詰まらない。
自分の力を十分に解放できず、
高揚感や全能感を現実では得られないからだ。
つまり物語を見るときは、
「ちょっと詰まらないとき」だ。
リア充は物語を見ない。
現実の高揚感や全能感や多幸感でいっぱいで、
そんな暇はないからである。
セックスに忙しい人は、映画なんか見ていない。
だから映画館に集う人々、
モニタの前にいる人々、
スマホやタブレットをねっころがって見ている人々は、
なんかしら不幸である。
ほんとに不幸な人でもない。
ほんとに不幸ならまたそんな暇もない。
つまり物語を見る人は、
現実では幸福にもなれず不幸にもならなかった人だ。
そういう人たちは、無意識に欲求不満を抱えている。
充実したいという。
自分の力を十分に解放し、
全能感や多幸感に包まれたいのだ。
(たとえば山登りする人や、アスリートたちは、
これを物語でない所から得る人たちだ。
趣味というのは、要するに、
何なら心や力を解放して高揚感や全能感を得られますか、
ということである)
しかしそこまで自覚して、人は物語を見るわけではない。
もっと別のものが誘蛾灯になる。
凄いCGとか、戦争シーンとか、
体当たりヌードとか、見たことがない景色とかだ。
それは、僕の言うガワだ。
人はガワに引かれて物語を見る。
しかしガワだけ見て、「ああ面白かった」と、
決して言わない。
それは物語の中身ではないからだ。
ガワだけ見たいなら、予告編だけ見てればいいのだ。
物語の中身とは、
結局、高揚感や全能感や多幸感を、
味わうことに他ならないのではないか。
高揚感や全能感や多幸感の欲求不満者が、
それをうまく味わい、
詰まらない現実を跳ね返せるから、
人は物語を見るのだ。
物語を見なくても、
人はこれを得られたりする。
たとえばアイドルやキャバクラなどで、
美人と過ごす時間を買うことで、だ。
ジャニーズは何故あれだけの客を動員できるのか?
高揚感や全能感や多幸感のない人に、
それらを与えることが出来るからである。
合法の麻薬というわけだ。
映画における誘蛾灯のひとつには、
この美形を見続ける多幸感がある。
だから出演者はガワになる。
外見だけでなく立ち居振舞いや生き方そのものを、
彼らは見世物としての高揚感や全能感に変えることが出来る。
さて。
これらが一切ない、
文字だけの脚本という物語の中身が、
高揚感や全能感を与えるということは、
どういうことだろうか。
それはつまり、
主人公が高揚感や全能感を得て、
力を十分に解放するのを見て、
代償行為としてそれを味わうことになるわけだ。
これを感情移入という。
これを安易にやるのが、
オレツエーである。
最強主人公の無双だ。
僕は、これは子供のものだと思っている。
砂場で一人で暴れるレベルにすぎないと。
大人ともなれば、
そんなことにリアリティーがないのは百も承知だからだ。
そんなこと出来てたらここにいないからだ。
その現実が、重くのしかかればかかるほど、
嘘臭いリアリティーにはピクリともしないのだ。
だから、物語の中では、
最初は敗北からはじまる。
力を十分に解放できず全能感を得られない主人公が、
いかにしてそれを解放し、成功するまでを描く。
そのステップ(展開)にリアリティーがなければ、
そんなの嘘だよと捨てられてしまう。
観客は全能感を得たい。
しかし現実では得られていない。
だから、架空の世界では、
リアリティー溢れるように全能感を解放するまでを描く。
それがリアルであればあるほど、
「それが本当にあったことのように」感じるわけだ。
これはVRとは違うことに注意されたい。
VRの疑似体験と物語の中身による疑似体験は違う。
VRの疑似体験は、全能感のみを切り取ったものだ。
オレツエー無双シーンだけを切り取る。
物語とは、全能感が発揮できないところから、
全能感が発揮できるまでの、プロセスそのものに、
バーチャルなリアリティーを感じることをいう。
同じ高揚感や全能感という言葉で指し示せるので、
混同の可能性がある。
点と線の違いである。
VRは射精シーンのみ。
物語は出会いから射精シーンまで、
という違いかな。
昔、「カンフー映画の、カンフーシーンばかり集めて編集したら、
どんな最高のビデオが出来るだろう」と、
ダビングを駆使して作ったことがある。
結果は一目瞭然だった。詰まらないのだ。
最初はカンフーバトルやアクションのすごさに興奮するのだが、
段々飽きてくるのである。
「何故彼らは命を賭けて闘うのか」
「これに勝てば何を得るのか/負ければ何を失うのか」
「彼らの人生にとって、この場面はどういう意味を持つのか」
がないと、面白くもなんともない、
ということに、僕は高校生のときに気づいた。
逆にそのストーリーさえ面白ければ、
カンフーバトルなしで、じゃんけんでもいい、
と気づくのは、大人になってからである。
(アクションが単なるじゃんけんでもいい、だって?
それでもドラマチックになることを示したのが、
AKBではなかったか?)
つまりエロビデオはVRという疑似体験。
ラブストーリーは、プロセスそのものの疑似体験。
高揚感や全能感は、
点でも得られる。
エロビデオやジャニーズコンサートやAKBじゃんけん大会は、
おおむねそのようなこと。
しかし物語にしか出来ないことは、
線による、
全能感がない状態からの、
リアリティーがある、
全能感を発揮するまでのプロセスだ。
「そんなはずない」「○○しないのはなぜ?」
「おかしいだろ」
などは、出来の悪い物語に対する批判である。
それはつまり、全能感を発揮するまでのプロセスに、
リアリティー欠如や矛盾があるということを、
指摘しているわけだ。
つまり、
線による物語は、
プロセスの娯楽である。
高揚感や全能感や多幸感を、
プロセスで娯楽するのだ。
点で味わうのは他にたくさんある。
しかし、プロセスそのものが娯楽になるのは、
ストーリーしかない。
で。
私たちはそれをつくる。
メアリースーオレツエーは、
私たちの仕事の全否定なのだ。
もし私たちがそんなことをしたら、
最前線を放棄した兵士に等しいということだ。
高揚感や全能感や多幸感。
それを、プロセスで描こう。
どうやって?
世界のリアルを知り、妄想でそれを上回ることで、
しかないと思うよ。
2017年08月15日
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