2017年08月15日

高揚感、ないし全能感

物語を見る理由のひとつは、
高揚感、ないし全能感を味わいたいから、
というのがあると思う。


普段の私たちは詰まらない。
自分の力を十分に解放できず、
高揚感や全能感を現実では得られないからだ。

つまり物語を見るときは、
「ちょっと詰まらないとき」だ。

リア充は物語を見ない。
現実の高揚感や全能感や多幸感でいっぱいで、
そんな暇はないからである。

セックスに忙しい人は、映画なんか見ていない。


だから映画館に集う人々、
モニタの前にいる人々、
スマホやタブレットをねっころがって見ている人々は、
なんかしら不幸である。
ほんとに不幸な人でもない。
ほんとに不幸ならまたそんな暇もない。

つまり物語を見る人は、
現実では幸福にもなれず不幸にもならなかった人だ。
そういう人たちは、無意識に欲求不満を抱えている。
充実したいという。
自分の力を十分に解放し、
全能感や多幸感に包まれたいのだ。
(たとえば山登りする人や、アスリートたちは、
これを物語でない所から得る人たちだ。
趣味というのは、要するに、
何なら心や力を解放して高揚感や全能感を得られますか、
ということである)

しかしそこまで自覚して、人は物語を見るわけではない。
もっと別のものが誘蛾灯になる。
凄いCGとか、戦争シーンとか、
体当たりヌードとか、見たことがない景色とかだ。
それは、僕の言うガワだ。
人はガワに引かれて物語を見る。

しかしガワだけ見て、「ああ面白かった」と、
決して言わない。
それは物語の中身ではないからだ。
ガワだけ見たいなら、予告編だけ見てればいいのだ。

物語の中身とは、
結局、高揚感や全能感や多幸感を、
味わうことに他ならないのではないか。

高揚感や全能感や多幸感の欲求不満者が、
それをうまく味わい、
詰まらない現実を跳ね返せるから、
人は物語を見るのだ。

物語を見なくても、
人はこれを得られたりする。
たとえばアイドルやキャバクラなどで、
美人と過ごす時間を買うことで、だ。
ジャニーズは何故あれだけの客を動員できるのか?
高揚感や全能感や多幸感のない人に、
それらを与えることが出来るからである。
合法の麻薬というわけだ。

映画における誘蛾灯のひとつには、
この美形を見続ける多幸感がある。
だから出演者はガワになる。
外見だけでなく立ち居振舞いや生き方そのものを、
彼らは見世物としての高揚感や全能感に変えることが出来る。


さて。

これらが一切ない、
文字だけの脚本という物語の中身が、
高揚感や全能感を与えるということは、
どういうことだろうか。

それはつまり、
主人公が高揚感や全能感を得て、
力を十分に解放するのを見て、
代償行為としてそれを味わうことになるわけだ。
これを感情移入という。



これを安易にやるのが、
オレツエーである。
最強主人公の無双だ。
僕は、これは子供のものだと思っている。
砂場で一人で暴れるレベルにすぎないと。
大人ともなれば、
そんなことにリアリティーがないのは百も承知だからだ。
そんなこと出来てたらここにいないからだ。
その現実が、重くのしかかればかかるほど、
嘘臭いリアリティーにはピクリともしないのだ。

だから、物語の中では、
最初は敗北からはじまる。
力を十分に解放できず全能感を得られない主人公が、
いかにしてそれを解放し、成功するまでを描く。
そのステップ(展開)にリアリティーがなければ、
そんなの嘘だよと捨てられてしまう。

観客は全能感を得たい。
しかし現実では得られていない。
だから、架空の世界では、
リアリティー溢れるように全能感を解放するまでを描く。
それがリアルであればあるほど、
「それが本当にあったことのように」感じるわけだ。

これはVRとは違うことに注意されたい。
VRの疑似体験と物語の中身による疑似体験は違う。
VRの疑似体験は、全能感のみを切り取ったものだ。
オレツエー無双シーンだけを切り取る。
物語とは、全能感が発揮できないところから、
全能感が発揮できるまでの、プロセスそのものに、
バーチャルなリアリティーを感じることをいう。

同じ高揚感や全能感という言葉で指し示せるので、
混同の可能性がある。
点と線の違いである。

VRは射精シーンのみ。
物語は出会いから射精シーンまで、
という違いかな。


昔、「カンフー映画の、カンフーシーンばかり集めて編集したら、
どんな最高のビデオが出来るだろう」と、
ダビングを駆使して作ったことがある。
結果は一目瞭然だった。詰まらないのだ。
最初はカンフーバトルやアクションのすごさに興奮するのだが、
段々飽きてくるのである。
「何故彼らは命を賭けて闘うのか」
「これに勝てば何を得るのか/負ければ何を失うのか」
「彼らの人生にとって、この場面はどういう意味を持つのか」
がないと、面白くもなんともない、
ということに、僕は高校生のときに気づいた。
逆にそのストーリーさえ面白ければ、
カンフーバトルなしで、じゃんけんでもいい、
と気づくのは、大人になってからである。
(アクションが単なるじゃんけんでもいい、だって?
それでもドラマチックになることを示したのが、
AKBではなかったか?)

つまりエロビデオはVRという疑似体験。
ラブストーリーは、プロセスそのものの疑似体験。

高揚感や全能感は、
点でも得られる。
エロビデオやジャニーズコンサートやAKBじゃんけん大会は、
おおむねそのようなこと。

しかし物語にしか出来ないことは、
線による、
全能感がない状態からの、
リアリティーがある、
全能感を発揮するまでのプロセスだ。

「そんなはずない」「○○しないのはなぜ?」
「おかしいだろ」
などは、出来の悪い物語に対する批判である。
それはつまり、全能感を発揮するまでのプロセスに、
リアリティー欠如や矛盾があるということを、
指摘しているわけだ。

つまり、
線による物語は、
プロセスの娯楽である。

高揚感や全能感や多幸感を、
プロセスで娯楽するのだ。

点で味わうのは他にたくさんある。
しかし、プロセスそのものが娯楽になるのは、
ストーリーしかない。



で。

私たちはそれをつくる。

メアリースーオレツエーは、
私たちの仕事の全否定なのだ。
もし私たちがそんなことをしたら、
最前線を放棄した兵士に等しいということだ。


高揚感や全能感や多幸感。
それを、プロセスで描こう。

どうやって?
世界のリアルを知り、妄想でそれを上回ることで、
しかないと思うよ。
posted by おおおかとしひこ at 14:24| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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