脚本に問題があるからだ。
ざっくり言うと、問題が解決していないからである。
問題が解決するのがストーリーである。
それがすっきり解決していないから、
問題、つまり不幸が残ってしまっている。
その不幸に共鳴して、みんな嫌だと言っているのだ。
つまり、バッドエンドのストーリーだからである。
不幸はみんな見たくない。
この手のドラマ型ムービーが増えた。
しかしみんな下手だ。
脚本教室の初心者レベルばかりの、いわば質の悪いストーリーが量産されている。
僕が講師ならこのストーリーは却下である。
問題が解決していないからだ。
ハッピーエンドのストーリーに対して、
その解決に商品が絡まないと、
その商品の広告にはならないと思う。
問題はたくさんある。
「ゴミ出しをやらされている」
「親父みたいになれていない」
「誕生日に遅れて、しかも飲んできた」
「その部下に感謝されたかどうかはわからない」
「妻との話の途中で逃げた」
「人生これでいいのだろうか」
などだ。
最大の問題は、商品とストーリーのブリッジにある。
「さ、洗い流そ。牛乳石鹸」と言われたとしても、
「これだけの大問題が石鹸ごときで解決するはずがない」と、
皆分かっているからである。
少なくとも、「気持ちを洗い流せば、問題に対して立ち向かう気分になれる」
というような意味であれば、
このバッドエンドストーリーにも、救いが訪れる。
人生はリアルではなかなかハッピーエンドにならないし、
問題は山積したままだけど、
気持ちを新たにすれば、それに押しつぶされずに済む、
という方向性ならば、リアルで、
かつ、石鹸の人生への立ち位置にあうと考えられる。
つまり、このCMは石鹸をヨイショしすぎている。
石鹸はそこまですごい魔法ではない。
だから、不幸は幸福に転じず、不幸の印象しか残らない。
たとえば、
「石鹸は洗い流せる。人生はどうだろう。」
「心まで洗い流そう。」
「リセットする魔法。」
ぐらいの距離感が、このストーリーを破綻させない、
リアルな距離感ではないかと考える。
(いずれにせよ、主人公のお父さんはここから、全ての問題を自力で解決しなければ、
ハッピーエンドにはならない)
もし、「さ、洗い流そ、牛乳石鹸」のままでやるとしたら、
ここまであった問題は、すべて洗い流されなければならない。
つまり、
誕生日に遅れたのは後輩を元気づけていたからだと家族が理解し、
その後輩が誕生日にそのせいで遅れたことを家族に詫び、
親父みたいにちょっとなれて、
明日もゴミ出しを積極的にできるようになり、
職場で一目おかれ、
奥さんも子供もお父さん頑張ってと言う
人生さいこう!
ようにならなければならない。
問題が解決するのがストーリーだからだ。
もちろん、たかが石鹸ひとつでここまで解決できるわけがない。
だから、リアル寄りにしてしまったのだ。
その結果、「石鹸は問題を解決しなかった」という、
バッドエンドかつCMとして三流のものになりさがっているわけである。
脚本論的に、これらを解消する方法はある。
1 石鹸で解決できるレベルに問題を矮小化する
2 石鹸で劇的に問題が解消するように、ストーリーを組み直す
3 石鹸は解決しないが、人が問題を解決する、その気持ちの切り替えをした、
もっとも影の主役は石鹸であった、という物語にする
などが考えられる。
「さ、洗い流そ。」を修正してもよい。
リアルではそこまで幸せにならないことぐらい、みんなわかっているからだ。
物理的な汚れを洗い流しても、人間の問題は解決しない。
人の問題を解決するのは人でしかない。
このストーリーを作った人は、人生経験が足りないのではないだろうか。
ストーリー型CMは、リアルに作ろうと思えば思うほど、
たかが商品ひとつで、人生の重たい問題が解決しないことに気づく。
持ち上げすぎて嘘にならず、
人生のふわっと浮き上がる瞬間を描けて、
人生と商品の関わり方を描ける人でないと、
こういうものに手を出すべきではない。
簡単に火傷するよ。
劇的な成功は、今の世の中にはない。それでも広告は幸せを描く。
つまり、今の幸せとは何かを描けないと、広告なんて全部炎上さ。
2017年08月18日
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