2017年08月18日

なぜ牛乳石鹸のwebCMは炎上したか

脚本に問題があるからだ。

ざっくり言うと、問題が解決していないからである。
問題が解決するのがストーリーである。
それがすっきり解決していないから、
問題、つまり不幸が残ってしまっている。
その不幸に共鳴して、みんな嫌だと言っているのだ。

つまり、バッドエンドのストーリーだからである。
不幸はみんな見たくない。


この手のドラマ型ムービーが増えた。
しかしみんな下手だ。
脚本教室の初心者レベルばかりの、いわば質の悪いストーリーが量産されている。
僕が講師ならこのストーリーは却下である。
問題が解決していないからだ。

ハッピーエンドのストーリーに対して、
その解決に商品が絡まないと、
その商品の広告にはならないと思う。

問題はたくさんある。

「ゴミ出しをやらされている」
「親父みたいになれていない」
「誕生日に遅れて、しかも飲んできた」
「その部下に感謝されたかどうかはわからない」
「妻との話の途中で逃げた」
「人生これでいいのだろうか」

などだ。


最大の問題は、商品とストーリーのブリッジにある。
「さ、洗い流そ。牛乳石鹸」と言われたとしても、
「これだけの大問題が石鹸ごときで解決するはずがない」と、
皆分かっているからである。
少なくとも、「気持ちを洗い流せば、問題に対して立ち向かう気分になれる」
というような意味であれば、
このバッドエンドストーリーにも、救いが訪れる。
人生はリアルではなかなかハッピーエンドにならないし、
問題は山積したままだけど、
気持ちを新たにすれば、それに押しつぶされずに済む、
という方向性ならば、リアルで、
かつ、石鹸の人生への立ち位置にあうと考えられる。

つまり、このCMは石鹸をヨイショしすぎている。
石鹸はそこまですごい魔法ではない。
だから、不幸は幸福に転じず、不幸の印象しか残らない。

たとえば、

「石鹸は洗い流せる。人生はどうだろう。」
「心まで洗い流そう。」
「リセットする魔法。」

ぐらいの距離感が、このストーリーを破綻させない、
リアルな距離感ではないかと考える。
(いずれにせよ、主人公のお父さんはここから、全ての問題を自力で解決しなければ、
ハッピーエンドにはならない)


もし、「さ、洗い流そ、牛乳石鹸」のままでやるとしたら、
ここまであった問題は、すべて洗い流されなければならない。
つまり、

誕生日に遅れたのは後輩を元気づけていたからだと家族が理解し、
その後輩が誕生日にそのせいで遅れたことを家族に詫び、
親父みたいにちょっとなれて、
明日もゴミ出しを積極的にできるようになり、
職場で一目おかれ、
奥さんも子供もお父さん頑張ってと言う
人生さいこう!

ようにならなければならない。

問題が解決するのがストーリーだからだ。


もちろん、たかが石鹸ひとつでここまで解決できるわけがない。
だから、リアル寄りにしてしまったのだ。

その結果、「石鹸は問題を解決しなかった」という、
バッドエンドかつCMとして三流のものになりさがっているわけである。



脚本論的に、これらを解消する方法はある。

1 石鹸で解決できるレベルに問題を矮小化する
2 石鹸で劇的に問題が解消するように、ストーリーを組み直す
3 石鹸は解決しないが、人が問題を解決する、その気持ちの切り替えをした、
もっとも影の主役は石鹸であった、という物語にする

などが考えられる。

「さ、洗い流そ。」を修正してもよい。
リアルではそこまで幸せにならないことぐらい、みんなわかっているからだ。

物理的な汚れを洗い流しても、人間の問題は解決しない。
人の問題を解決するのは人でしかない。


このストーリーを作った人は、人生経験が足りないのではないだろうか。




ストーリー型CMは、リアルに作ろうと思えば思うほど、
たかが商品ひとつで、人生の重たい問題が解決しないことに気づく。

持ち上げすぎて嘘にならず、
人生のふわっと浮き上がる瞬間を描けて、
人生と商品の関わり方を描ける人でないと、
こういうものに手を出すべきではない。
簡単に火傷するよ。

劇的な成功は、今の世の中にはない。それでも広告は幸せを描く。

つまり、今の幸せとは何かを描けないと、広告なんて全部炎上さ。
posted by おおおかとしひこ at 18:50| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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