しかしながら、
動詞であるが、絵に表せない動詞がある。
「成長する」である。
では試しに「成長する」を撮影してみよう。
ハイヨーイスタート、成長してみて。
ハイカット。うーんしてないな。
よし、三日間じっとしてて。
タイムラプス(長時間撮影して早送りする)するよ。
三日後また来るね。
よし撮れたかな。背のびた?
髭が伸びたくらいで、成長に見えないなあ。
よし子供を連れてこよう。一ヶ月じっとしてて。
ヨーイスタート。
よし撮れた。おっ、ちょっと背伸びたんじゃない?
あれ?背が伸びることって、
「成長する」ってことかな?
つまり、成長することを、カメラに撮ることは難しい。
にも関わらず、ほとんどの物語では、
「成長する」が行われている。
どういうことだろう。
分かりやすいのはビフォーアフター法である。
出来ないことがある、からスタートして、
物語が終わる頃には、
出きるようになっている、
というものだ。
逆上がりが出来ない→出来る
なんて身体的なことを描くのはストーリーではない。
心の内面を描くのがストーリーだ。
弱い者を切り捨てる→弱い者を助ける
などで描く。
しかしこれは、
「世の中は弱肉強食である」という価値観から、
「世の中は共生である」という価値観に主人公が変化しない限り、
取る行動ではない。
これが自然に行動するには、
それ以前に、その価値観の変化に値する、
なにがしかの事件を経験しなければならない。
それが、物語の中核である。
ここで特筆すべきことは、
受動的な変化は変化ではないことだ。
例えば、
本や映画に感化される、
誰かの受け売りをする、
テレビに影響される、
共に行動してた人の思想を盗む、
のは受動的な変化だ。
「なにもしてないくせに変化した」のは、おかしい。
現実ではたまにあるけど、
それは本当の変化ではなく、かぶれである。
本当の変化を描かなくてはならない。
では本当の変化とはなんだろう。
自分で行動して痛い目にあって、
自分の欠点を把握して、
自分自身を改善しなければならないと自覚し、
その通りに改善すること
である。
ストーリーを書くことが苦しいのは、
ここを越えなければならないからだ。
でも安心するべきだ。
僕は、「主人公は自分自身にしてはいけない」と、
口酸っぱくしている。
主人公は他人にせよと。
他人なら、欠けているところの改善を描けるからである。
主人公を自分にしてしまうと、
自分の欠点を克服するところを書かなければならない。
それは苦しすぎる。
だから、
自分の欠点でない他人の欠点を、
他人が克服するところを描いて、
他人が内面の変化を遂げるところを描くのだ。
それの何が楽しいの?
そこにリアリティーがあり、人生があるからである。
逆にあなたは、
その内面の変化によって、
リアリティーのある、人生の醍醐味を書かなければならない。
それが物語である。
ところで、その内面の変化は一瞬か。
否だ。
内面の変化は、実は二時間かかって描かれる。
映画とは、絵面は「とある事件が起こり、解決する」であるが、
実は主人公がそれを解決するまでに、
「自分自身の欠点に向き合い、改善する」を旅することでもあるのだ。
しかし小説と違って、心のなかで何を思っているのかを、
撮影することはできない。
だから、その人の発言や動作で推察されるように描く。
たとえば、
道行くおばあさんを突き飛ばして仕事に急ぐ。
のようにすれば、「世の中は弱肉強食である」
とこの人は思っている、と描くことが出来る。
勿論、このシチュエーションはあまりにもベタだから、
新しいシチュエーションを思いつく必要がある。
新しいシチュエーションで新しい動作で、
その思考を表現することが、
新しい物語を書くことだ。
もっとも、難しいことなので、
時々使い古されたシチュエーションを使って、
作者や観客の手間を省くこともある。
「悪役が部下をあっさり殺す」なんてのは、
「この人は冷酷で残虐だ」を示す、
どんな時代でもよくある分かりやすいベタである。
(使い古されたベタなので、「合理や責任を尊ぶ」みたいな、
別の性格や思想を表現するために使ったりもするね)
つまり、あるシチュエーションと動作のペアで、
何か内面を推察してもらおうとすることには、
伝わりやすい/伝わりにくい
というファクターがあるわけだ。
アメリカ人は、その表現をいくらでも強くすることを好む。
バタ臭いという言葉は、
カロリーが高いという意味だ。
驚くなら全力で驚き、
悲しむならこの世の終わりのようにし、
喜ぶなら跳ね回って犬のように喜ぶ。
その方が伝わるからである。
日本人は空気を読み、目立たないことをよしとする恥の文化なので、
外に伝わりやすい表現をしない傾向がある。
しかしそれでは観客に伝わらない。
分かる分からないでいえば、分からない物語になる。
なので、
新しくて素晴らしい表現>ベタな表現>伝わらない表現
という順序があることを知っておくといい。
伝わらないくらいなら、古典的手法を用いてでも、
まずは伝えるべきだね。
さて。
物語とは、事件を解決する、
能動的過程であった。
受動的な主人公はヒーローではない。
甘えたメアリースーである。
事件を解決する人物が主人公である、
という定義だといってもよい。
最初に出てきて、作者の思い入れのある分身みたいなキャラが、
主人公ではない。
熱血で優しく強くて、物語の主人公っぽいキャラが、
主人公ではない。
積極的にその事件を最終的に解決に導く人が、
他人である主人公だ。
そしてその他人は、内面的欠点がある。
そしてその他人は、事件解決行動の過程で、
自信の欠点に気づく。あるいは気づかないふりをしていたことを認めざるを得ない。
その欠点を改善しないで事件解決は難しい。
だとするとその他人が、自らの考え方を変えて、
事件解決という目的を優先しなければならない。
こうして、その他人は、二つの問題に向かい合う。
事件解決と、欠点克服である。
他人のことなので、自分の欠点は棚において、
あなたはこれを書く。
そしてクライマックスにおいて、
事件は無事に解決して、
内面的変化を上手く遂げられたような、場面を書く。
それが「成長する」を「絵で表す」ということ。
つまり。
映画というのは、「動詞を撮る」。
「何をしてるかまず分かるように撮る」。
シチュエーション、動作、発言、表情。
そしてそれが、
「本当には何を意味してるのか、
文脈によって推察されるようになっている」
という、二重の意味があるのだ。
もちろん全カットそうせよといっているのではない。
肝になるところはそうするのだ、
と言っている。
だから、
極端に言うと、
「弱肉強食という思想から共生という思想に成長した」という内面の変化を、
「鉄棒で逆上がり出来ない」→「出来る」という、
撮影可能な変化で示すことの出来る、
文脈を作ることは、
可能である。
まあ普通は、
「おばあさんを突き飛ばすような男が、
事件解決で協力が大事だという経験を減ることで、
おばあさんに席を譲るようになる」
みたいに描くけどね。
つまりここでは、おばあさんは象徴だ。
鉄棒を象徴表現として、
「弱肉強食と共生」を表現できる、上手いやり方が見つかれば、
それは可能と言うことだ。
逆に、あり得ない新しい象徴表現で、
かつ強く伝わるものを探すことが、
オリジナルを作ると言うことだ。
なぜ、映画は「成長する」が必要なのか?
それは、その事件解決のストーリーに、
「意味があった」からである。
意味のない事件解決は、たとえば、
「今日は風呂掃除した」みたいな、ただの日記だ。
そうではなく、
「今日の風呂掃除を通じて、
私は弱肉強食ではなく、共生が正しいと理解した。
風呂掃除には意味があったのだ」が、
意味のある事件解決である。
勿論、風呂掃除でそうなるとは思えないので、これは極論だ。
だけどもしそれが出来れば、その話はオリジナルになるだろうね。
意味のない他人の話を聞いても、
わたしにとっては意味がない。
それは退屈である。
他人の話が意味があるときは、
わたしにとっても意味があるときに限る。
どんな意味があるかは、その話次第で、
その意味をテーマという。
成長は、意味であるテーマを描きやすい。
否定から肯定に変化することで、
not A, but Bの構文になるからである。
逆に成長なしで、
何らかの意味を読み取るのは、非常に困難だ。
たとえば浦島太郎のストーリーからは、
明確な意味を読み取れない。
「遊び呆けていたら時を失うよ」という警告ではない。
彼は感謝されて歓待を受けただけだからだ。
「親切は裏切られるのでするべきでない」でもない。
そんな意味のない意味を、伝える意味がわからない。
だから浦島太郎の意味は、「こんな不思議な話聞いたんだけど」
という程度だ。
それをストーリー内部から読み取ることは不可能だ。
「不思議な話集」の一本に入っていて、
初めてそれが分かる。
そういうのを、現代では「怪談集」「都市伝説」といい、
昔なら「拾遺集」「今昔集」「異聞集」「民話」と言っていただけだ。
あなたが怪談を書きたいのなら、
意味のない話を書きなさい。
一見意味がありそうに見えて、
やっぱり意味のない話は最高だ。
読み取れそうで、やっぱり意味の分からない話はホラーだ。
たとえば、さきほどボコボコにしておいた、
牛乳石鹸のwebCMは、ホラーだ。
「こんな不思議な話を聞いたんじゃ。
ある辛い男がおっての。
…(略)…なんと、風呂に入ったら、
全てがうまくいったのじゃ。おしまい」
は、怪談でありホラーである。
「なんで?」がないからだ。
意味が通じないからである。
出来のいいホラーは、もっと怖い。
意味が通じそうで、ギリギリ意味が通じないように作られている。
牛乳石鹸のwebCMは、つまり下手なホラーで、
つまりはゴミである。
成長なしで意味を読み取れる話を作ることは、
とても難しい。
逆に、成長ありで作ったほうが、
スッキリする、カタルシスのある、
上手なハッピーエンドに導ける。
そしてそれらを全て下手を避けた新しいシチュエーションとやり方で、
これを実現することを、創作という。
牛乳石鹸のwebCMは、
それを知らない、
または知ってても全く出来ない、
無知か無能の作った、出来のわるいホラーだ。
牛乳石鹸の効能であるところの、
汚れが優しく落ちるから、
心も優しくなって、心の汚れも優しく落ちるね、
という意味を、何一つ表現できていない、
出来のわるいホラーだ。
ダメなものを見ると勉強になる。
下を見れば上はどういうことかわかる。
あなたは上を目指しなさい。
2017年08月19日
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