すーざんさんから前記事に関して質問を受けたので、
真剣に回答してみたい。
>なぜ、これほどまでにダメなCMを、牛乳石鹸はOKしてしまったのでしょうか。素晴らしい!これは絶対ウケる!と内輪受けし、世間の人達もきっと共感する!と確信したとすれば、牛乳石鹸サイドもまた、メアリースー病だったということでしょうか。
当事者ではないので、牛乳石鹸の事情までは測りかねます。
だがしかしこれは、「なぜ爆死するシナリオが沢山映画化されてしまうのか」
と似たような、もはや業界の癌のようなものだと僕は考えています。
1. 集団の意思決定の困難さ
2. 読解力のなさ
3. 自分がメアリースーに取り憑かれているかどうかの判断
の三本だてで考えますか。
1. 集団の意思決定の困難さ
件の広告は、数千万から一億くらいのお金がかかっています。
純粋なムービー制作費だけでなく、
PA(サイト制作や、ここまで来るリーチを作るための、
宣伝費などを含む)も含んで考えます。
つまり、牛乳石鹸の払った総費用ということです。
さて、これは一人では決定を出せないので、
複数の決定者が存在するでしょう。
数名から上の責任者まで含めると十数名でしょうか。
その集団が、ひとつの意思を決定することは、
原理的に困難です。
本来、ストーリーというのは、脚本家及び監督の、
たった一名の決定者によって作られるものです。
ここの脚本論でこれだけ語ったとしても、
ストーリーというのはなお魔物であり、
髪の毛一本間違えたら簡単にダメになるのは、
一本でもストーリーを書いたことがあれば分かるはずです。
しかるに、それだけ難しいストーリーを、
複数の決定者が決定権を握る、
ということの意味が僕には分かりません。
複数の決定者が存在すると、
「複数のチェック機構が働き、より良いものが作れる」
というアプリオリな直感に反して、
「最適解をその集団が決定できるとは限らない」
というパラドックスが発生します。
身近な例では、
不合理の塊であるQWERTYキーボードが、
何故量産され続けているかということです。
あるいは、何故大日本帝国は、
負けると分かっている戦争をはじめたのか、
ということと同じです。
あるいは、地動説を提出したガリレオガリレイを処刑した集団を考えましょう。
集団の判断が最適解でない例です。
一部の賢い人がいて、多数が愚かである場合、
とは限りません。
別々の方向性の判断がなされて、
その意見調整がうまくいかないことが、
集団の意思決定の困難さの主な原因と僕は考えています。
大体、あとでインタビューするといいわけするでしょう。
「そういう認識ではなかった」と。
民主主義は、話し合いが前提です。
それは、「人々の認識が異なる」ことを前提としています。
だから、認識が同一となるまで、
全てをつまびらかにしたうえで、
利益とリスクをわかった上で、判断する、
ということが前提です。
つまり、民主主義は、「徹底的に話す」まで、
結論を出してはいけません。
ところが、広告制作でも、映画制作でも、
これは徹底されていません。
責任者全員が同じテーブルで話すことはありません。
監督が牛乳石鹸と話すシステムはないし、
制作委員会と話すシステムもありません。
(ついでに角川映画では、監督が宣伝会議に出れません)
物語の作者が、作者でない人間に決定権を取られているのが、
現在の日本のビジネスの仕組みです。
(小説や漫画のほうが、まだましでしょう)
加えて、それは同じテーブルで一度に話されることはありません。
各自がバラバラに言い、情報や指示が時間差で錯綜するのがふつうです。
だからAを直している途中で、それと矛盾するBの直しの指示が来ることもあります。
それは矛盾してるからAとBが話してくれと言っても、
その双方をうまく満たしてくれ、と言われることはしょっちゅうです。
僕は、少なくとも、
集団の意思決定と認識はひとつにするべきだと考えます。
決定権を持つ人が、同じテーブルにつき、
全てがつまびらかにするまで、
認識を同じくすべきです。
しかしそれには時間がかかります。
「そういうものだとは知らずに参加した。
ここで降りさせてもらう」という人も沢山出るでしょう。
それではプロジェクトが空中分解します。
広告では数億が、映画では十億が動きます。
やっぱやめます、では違約金が発生します。
だから、プロジェクトが一端走り出したら、
それはやめられないまま、進まざるを得ません。
より大失敗すると分かっていてもです。
これが、戦争や爆死映画が止まらない理由です。
(僕は角川映画と揉めて、クランクイン一週間前に降板を相談しました。
「いまさら中止できない」というのが、
めためたになった脚本のゴーサインでした。
あと一ヶ月あれば、書き直せたのに)
たとえば東京オリンピックは、失敗するでしょう。
みんな泥船だとしっています。
なのに何故やめないのか?
「いまさら」やめられないからです。
(余談ですが、てんぐ探偵の妖怪「いまさら」の巻は、
そんなことを揶揄しています)
全員が同じテーブルにつき、
時間をかけて認識を統一すればいいだけです。
余談ですが、90年代のサントリーは、
CM業界では随一の名CMを連発する会社でした。
そのときのシステムが、
「全員が同じテーブルにつく」というルールでした。
監督も同席し、忌憚なき意見を言ったといいます。
それは、
最初の立ち上がり(オリエン)、
脚本決定稿(演出コンテ)、
仮編集試写(直せる最後のチャンス)と、
三回持たれたと聞きます。
どの会社も、どの映画会社も、
そんなことはしていません。
だから、戦争に負けるのです。
これはシステムの問題です。
もちろん、資質の伴わない人が一票を持っていたときの、
問題点は民主主義にあります。
しかしながら、その人に教え、正しく導くまでが、
民主主義の義務であります。
そんなめんどくさいことはしないので、
人々は遅れてメールで意見を言います。
集団で意思決定せず、
少数精鋭で作る手もあります。
そのほうがぼんやりしない、鋭いものがつくれます。
しかし、問題はその資金源です。
多くの人を集めないと、
映像を作るだけの資金は集まりません。
そして彼らは同じテーブルにつかないし、
しかも投資家や石鹸制作者などの、
ストーリーに関して素人である可能性があります。
僕は彼らと同じテーブルにつき、
認識を同一となるまでがんばる覚悟はありますが、
間に立つ人は申し訳ないからと、双方に言うでしょう。
本当に申し訳ないのは、認識を同一にできないことなのに。
なんでも作りな、というパトロンが、
どさっと資金を提出し、
少数精鋭で作るのが、
面倒がなく楽です。
しかし日本はご存知のとおり不景気。
ハリウッドが中国マーケットを狙っているのは、
中国に資金パトロンがいるからです。
2. 読解力のなさ
「海猿(完結編)」のシナリオの話は、
以前したかも知れません。
10年以上前、僕が映画監督になれるかなれないかのころ、
海猿完結編のシナリオを読む機会がありました。
どう思う、と東宝映画のPに聞かれたのです。
僕は「つまらないご都合主義で、
原作の一番いいエピソード、飛行機墜落事件を、
矮小化している」と手厳しくいいました。
ところが、「東宝の役人が何人も泣いた」というのです。
僕はアホかと思いました。
その泣いた人は、ひょっとしたら原作漫画を読んでないのでしょう。
読んでてて泣いたのなら、バカか読解力がないかの、
どちらかです。
牛乳石鹸のシナリオにどう書かれていたかわかりませんが、
たとえばラストに、
「主人公は、ゴミを出す。しかしそれは嫌々ではなく、
進んでしたことだ。気持ちが晴れやかになったからだ。」
なんて書いてあったら、「そういうものが出来るのか」と、
読解力のない人なら想像するでしょう。
しかしシナリオが読める人からすれば、
「ただの落下する夕方テンプレなのに、
このト書きのようになるわけないじゃん。
そんな芝居、役者がやっても読み取れないよ。
だってそういう文脈に、シナリオではなってないから」
と反論できます。
牛乳石鹸の人は、シナリオを読むプロではなく、
石鹸を作るプロです。
シナリオを読むには、技能が必要です。
シナリオを誤読していたかどうかは、
とことんまで話し合うことでしか分かりません。
分からないままプロジェクトが進んでいたとき、
後戻りする勇気は誰にもありません。
数千万から一億飛びますから。
3. 自分がメアリースーに取り憑かれているかどうかの判断
これが実は厄介です。
牛乳石鹸の人は、本当にこういう辛い目にあっているお父さんだった可能性があります。
だから、「俺のことが書いてある」と涙したのかもしれません。
僕が毎回唾棄する「かもめ食堂」も同じです。
あれはオバサンのメアリースーです。
しかしながら、オバサンを中心にヒットしました。
それまでオバサンたちは、認められていなかったからです。
いわば自己承認欲求を満たしたのです。
それは、それ以外の人から見たら甘えです。
しかし、甘えたい人から見たら甘露です。
素人である牛乳石鹸の人が泣くのは勝手です。
しかし、それは甘えであると判断する他人の目があることが必要です。
海猿の件では、
泣いた人は大抵オジサンで、
劇中のオジサンに自分を重ねて泣いたのだそうです。
それは感情移入ではなく、単なる共感であることは、
このブログで繰り返し警告していることです。
感情移入とは、共感しない人をも最終的に感情移入させることを言います。
説明なしに共感しあうのは、傷のなめあいといいます。
質問の答えになっているでしょうか。
全員がメアリースーに取り憑かれていなかったかも知れません。
人の良いオジサンたちばかりで、
プロのやることに全面的に任せたのかも知れません。
だとしたら、そのプロは良心を欺いた犯罪者です。
法律では裁けませんが、天がいつか裁くでしょう。
実際のシナリオ、意見を言い合う会議に参加していないので、
ほんとうのことは分かりません。
あくまで想像ですが、
おそらく似たようなことは、
今どこの映像業界でも起こっていることです。
素人が大金を出して意見を言うほど、
ストーリーというのは、生易しいものではありません。
集団が意思決定するほど、
ストーリーというのは生ぬるいものではありません。
僕がここを書いている動機は、
そのような素人が、ストーリーというものは、
こういうものだと知ってもらうためにあったりします。
実際のところは、プロになりたい人が読んでるでしょうが、
そうじゃない人にも向けて書いてるつもりです。
何故ジョジョは爆死すると分かってるのに、大金をつぎ込むのか?は、
何故大日本帝国は負けると分かっているのに真珠湾をやったのか?
と、同じことだと思います。
ストーリーを作るのは、たった一人の才能です。
そのことと、戦争のやり方が矛盾を来していて、
いまや後戻りできないくらいに、
システムが狂っているからだと、
現在の僕は考えています。
サントリーと言えば、ご存知かとは思いますが、このような記事が最近ありました。かつてと今では、話し合いの方法が変わってしまったのかもしれません。
「お酒飲みながらしゃぶるのがうみゃあで」 サントリー「コックゥ〜ん!」CMに「下品」「下ネタ」と批判相次ぎ公開中止へ
http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1707/07/news096.html
このこっくーんの件って、
たしかビールのシズルにつきものの、
「ゴクッ」て喉ごしのSEが使えなくなった
(自主規制かテレビ局の規制かわすれた、完全禁止かどうかも)
ことへの対策として生まれたもののはずです。
僕はそもそも「ゴクッ」という音が効果があるかについては、
疑問視していますが、業界の神聖なるルールみたいなことになっていて、
慣例を崩せませんね。
Webならばれないから好き勝手やれる、
というのはちょっと前までの認識なので、
またシステムは変わるかもしれません。
僕は、抵抗なき所に表現はないと考えます。
抵抗されたときに、自信をもって説明できるかどうかだと思います。
そのためには認識を一枚岩にするべきですが、
別会社だから結託も難しいんですよねえ…