脚本論として書いておく。
創作の文(とくに第一稿)を書くベストの状態は、
取り憑かれたように書くことだ。
自動書記に近い状態。
創作というのは一種の狂気である。
狂ったように書かなければストーリーの勢いがない。
事態の進行は、想像のなかでどんどん進む。
記録係としての筆者が遅れたら、
ストーリーはどこかへ行ってしまう。
この状態、一種の神憑りがもつのは、
30分とか、一時間とか、90分だ。
それ以上はもたない。
一日一回か、来ないか。
複数回はなかなか来ない。
一回寝ると来やすい。
寝たら頭が回復するからだろう。
まるで受験勉強だ。
僕は、これを保つのは、手書きが最もよいと主張している。
創作とは枠にとらわれないことだから、
白紙に殴り書きが一番いいとも言ってきた。
ついでにいうと青のゲルインクボールペンを、
学生時代から30年近く愛用してることも言ってきた。
勿論これは、第一稿という狂気に限る。
逆に狂気くらいにならないと、長い物語なんて書けない。
第一稿はたいていめちゃくちゃだ。
筋が通ってはいるが弱かったり、
バランスが悪いのが普通だ。
それを読める形に整えるのを推敲というわけだ。
推敲は、僕は紙焼きした活字に、
同じく青のボールペンで書き込むスタイルだ。
黒い活字に青なので、区別がつきやすい。
で本題。
親指シフトは、指が喋るようになるという。
具体的には分速200カナぐらいからそうなるらしい。
で、「指が喋る」とは、創作文における、
第一稿の狂気とどう違うのか、
それを知りたかったのである。
結論で言えば、
親指シフトだろうがQWERTYだろうがカタナ式だろうが、
分速200カナに近づけば、
なんでも指が喋る、ということ。
あとは各配列で指への負担が違う程度だろう。
得意ワード不得意ワードもあるだろうけど。
脳内常駐ソフトが重い軽いなんて話もあるけど、
手書きに比べれば大同小異である。
ただし。
「指が喋る」状態は、第一稿を書いている狂気とは違うと感じた。
指が喋る状態は、多分に分析的で、
物語を書くような没入感がない気がした。
それは、指を複数動かしてる感覚と、
ペン一本に全てが託されている感じの、差ではないかと思う。
キーボードはどこまでいっても演奏。
後ろにいて、最前線にいない感じがする。
「そのこと」を、剣で刺したり削ったりしていく感覚ではない。
当事者感覚の差といえばいいか。
指はお喋りレベルだ。
物語の当事者の、責任を問われる感じではない。
複数の指に責任が分担されていて、
最終責任者が頭の感じがするのと、
ペンに責任が一任されている感じの差。
指はうっかり言ったことの責任で、
ペンはしてしまったことの責任、みたいな感じ。
キーボードがアンドゥ可能なデジタルデータなのに対して、
ペンと紙が物質であることにも関係してるかもだ。
アップルペンによる手書き入力と、
日本語タイプライターを比較してないのでなんともいえないけれど、
想像するだに、
自我はひとつ/物質として行動すること、
と両方揃うのが、
物語に向いてる気がした。
逆に、分析する文章、たとえばブログや論文は、
指が喋る状態が向いてるようなきもする。
親指シフトが目指した「創作文」というのが、
どういう用途であったか、今となっては不明だけど、
作家に親指シフターが多い理由は、
たんに指の負担がqwertyローマ字より軽いからだと思うよ。
(で、カタナ式は、それより別の意味で指の負担が軽いわけだ)
あるいは、
原稿(モニタ)と自我の間に、横に長いものが挟まっていて、
ダイレクトに原稿と繋がっていないからかも知れない。
ペンと紙は、丸裸で原稿と相対する、というだけのことかもしれない。
キーボードの影に隠れられないかんじ。
で。僕のオススメは、
第一稿はタイピングでやらないこと。
手書きをすすめます。
もっとも、自分の手書きのスピードを計って判断したほうがいいかもだ。
悪筆で遅い人は、矯正器具としてのタイピングを利用するかもしれない。
どんなミミズ文字でも構わない。
一本の軌跡、線が物語であると思う。
ことばの入りや出が違う指なのが、
僕の物語の感覚ともうずれている。
先日はとんでもない内容のものをコメントし、失礼しました。
このコメントが届くかどうかも分かりませんが・・・
昨年の11月、ど素人の私が取り憑かれたような状態になり、物語の設計図は手書き、文章はPCで10日ほどで二時間物語の第一稿は出来上がりました。
確かに、今思い返せば狂気そのものの日々だったように思います。
清々しいまでに腑に落ちましたので、つい一筆。
草々
狐憑きという人もいるし、神託という人もいるし、
バシャールという人もいるし、言霊という人もいます。
僕は科学的には無意識領域だと考えています。
集合的無意識なユング的なことじゃなくて、
単なる脳内にある、顕在意識が意識してないところ
(記憶や夢のようなもの)だと。
で。ストーリーテラーというのは、
毎日この狂気と平静を何度も行き来する、
夢遊病患者のような生き物です。
コントロールしきれなくなると、認知症や気違いになってしまうでしょうね。
事実、そういった作家も沢山いました。
狂気が来ないからといって薬物に頼る人も出る始末。
僕は白紙を前にすると勝手にわくわくしてそれが始まるので、
特に困っていません。(一日の量に限界があるようです)
そういう、自分なりのコントロール法を作っていかないと、
この先コンスタントにつくることは難しいです。
狂気を実感した人ほど、理解しやすいかと。
参考になれば。