2017年08月21日

指が喋ることと創作の文を書くこと

脚本論として書いておく。

創作の文(とくに第一稿)を書くベストの状態は、
取り憑かれたように書くことだ。
自動書記に近い状態。


創作というのは一種の狂気である。
狂ったように書かなければストーリーの勢いがない。
事態の進行は、想像のなかでどんどん進む。
記録係としての筆者が遅れたら、
ストーリーはどこかへ行ってしまう。

この状態、一種の神憑りがもつのは、
30分とか、一時間とか、90分だ。

それ以上はもたない。
一日一回か、来ないか。
複数回はなかなか来ない。
一回寝ると来やすい。
寝たら頭が回復するからだろう。
まるで受験勉強だ。


僕は、これを保つのは、手書きが最もよいと主張している。
創作とは枠にとらわれないことだから、
白紙に殴り書きが一番いいとも言ってきた。
ついでにいうと青のゲルインクボールペンを、
学生時代から30年近く愛用してることも言ってきた。

勿論これは、第一稿という狂気に限る。
逆に狂気くらいにならないと、長い物語なんて書けない。

第一稿はたいていめちゃくちゃだ。
筋が通ってはいるが弱かったり、
バランスが悪いのが普通だ。
それを読める形に整えるのを推敲というわけだ。

推敲は、僕は紙焼きした活字に、
同じく青のボールペンで書き込むスタイルだ。
黒い活字に青なので、区別がつきやすい。


で本題。

親指シフトは、指が喋るようになるという。
具体的には分速200カナぐらいからそうなるらしい。

で、「指が喋る」とは、創作文における、
第一稿の狂気とどう違うのか、
それを知りたかったのである。

結論で言えば、
親指シフトだろうがQWERTYだろうがカタナ式だろうが、
分速200カナに近づけば、
なんでも指が喋る、ということ。
あとは各配列で指への負担が違う程度だろう。
得意ワード不得意ワードもあるだろうけど。
脳内常駐ソフトが重い軽いなんて話もあるけど、
手書きに比べれば大同小異である。

ただし。
「指が喋る」状態は、第一稿を書いている狂気とは違うと感じた。

指が喋る状態は、多分に分析的で、
物語を書くような没入感がない気がした。
それは、指を複数動かしてる感覚と、
ペン一本に全てが託されている感じの、差ではないかと思う。

キーボードはどこまでいっても演奏。
後ろにいて、最前線にいない感じがする。
「そのこと」を、剣で刺したり削ったりしていく感覚ではない。
当事者感覚の差といえばいいか。

指はお喋りレベルだ。
物語の当事者の、責任を問われる感じではない。
複数の指に責任が分担されていて、
最終責任者が頭の感じがするのと、
ペンに責任が一任されている感じの差。

指はうっかり言ったことの責任で、
ペンはしてしまったことの責任、みたいな感じ。

キーボードがアンドゥ可能なデジタルデータなのに対して、
ペンと紙が物質であることにも関係してるかもだ。

アップルペンによる手書き入力と、
日本語タイプライターを比較してないのでなんともいえないけれど、
想像するだに、
自我はひとつ/物質として行動すること、
と両方揃うのが、
物語に向いてる気がした。


逆に、分析する文章、たとえばブログや論文は、
指が喋る状態が向いてるようなきもする。
親指シフトが目指した「創作文」というのが、
どういう用途であったか、今となっては不明だけど、
作家に親指シフターが多い理由は、
たんに指の負担がqwertyローマ字より軽いからだと思うよ。
(で、カタナ式は、それより別の意味で指の負担が軽いわけだ)

あるいは、
原稿(モニタ)と自我の間に、横に長いものが挟まっていて、
ダイレクトに原稿と繋がっていないからかも知れない。
ペンと紙は、丸裸で原稿と相対する、というだけのことかもしれない。
キーボードの影に隠れられないかんじ。


で。僕のオススメは、
第一稿はタイピングでやらないこと。
手書きをすすめます。
もっとも、自分の手書きのスピードを計って判断したほうがいいかもだ。
悪筆で遅い人は、矯正器具としてのタイピングを利用するかもしれない。

どんなミミズ文字でも構わない。
一本の軌跡、線が物語であると思う。
ことばの入りや出が違う指なのが、
僕の物語の感覚ともうずれている。
posted by おおおかとしひこ at 13:59| Comment(2) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
前略

先日はとんでもない内容のものをコメントし、失礼しました。

このコメントが届くかどうかも分かりませんが・・・
昨年の11月、ど素人の私が取り憑かれたような状態になり、物語の設計図は手書き、文章はPCで10日ほどで二時間物語の第一稿は出来上がりました。

確かに、今思い返せば狂気そのものの日々だったように思います。

清々しいまでに腑に落ちましたので、つい一筆。

草々
Posted by うしおいちえい at 2017年08月23日 10:28
うしおいちえいさんコメントありがとうございます。

狐憑きという人もいるし、神託という人もいるし、
バシャールという人もいるし、言霊という人もいます。
僕は科学的には無意識領域だと考えています。
集合的無意識なユング的なことじゃなくて、
単なる脳内にある、顕在意識が意識してないところ
(記憶や夢のようなもの)だと。

で。ストーリーテラーというのは、
毎日この狂気と平静を何度も行き来する、
夢遊病患者のような生き物です。
コントロールしきれなくなると、認知症や気違いになってしまうでしょうね。
事実、そういった作家も沢山いました。
狂気が来ないからといって薬物に頼る人も出る始末。

僕は白紙を前にすると勝手にわくわくしてそれが始まるので、
特に困っていません。(一日の量に限界があるようです)

そういう、自分なりのコントロール法を作っていかないと、
この先コンスタントにつくることは難しいです。
狂気を実感した人ほど、理解しやすいかと。
参考になれば。
Posted by おおおかとしひこ at 2017年08月23日 11:50
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