前記事の続き。
仮に馬鹿を黙らせることに成功し、
賢人会のみで議論出来たとしても、
次に別ベクトルの問題が立ちはだかる。
それは、
「人は、宣言したもの通りを作れるとは限らない」
という問題だ。
これは、自分一人でものを作ったことのある経験者なら、
全て経験していることだ。
以下のようなことが、とてもよくある。
1. 最初に立てたコンセプトが、
思い通りに実現するとは限らない。
2. 作っている途中で、
より良いものに化け、最初よりもいいものができた。
3. 作っている途中で変更したものは、
最初に立てたコンセプトより劣っていた。
4. 最初のコンセプト以上のものができた。
5. 最初のコンセプト通りに出来たが、
たいして良くなかった。
などなどだ。
ここでどのようにリライトすべきかという賢人会が持たれ、
コンセプトが詰められ、再び制作に入る。
しかしまた同様のことが起こり…
という、別の形のループが起こる。
しかも、1-5の、どれが起こるかは、
予測不能だったりする。
正確にいえば、大体は予測できるが、
本当のところは出来上がってみないとなんとも言えない、
あたりだろうか。
つまり、
人は未来にやることを正確に宣言できない。
(宣言した方がそれに収束しやすい、
という実験的事実はある。予言の自己成就。
ダイエットとか、引き寄せの法則とか)
そもそも、既存の組み合わせではない、
新しいものを作るのが芸術の役目だ。
ということは、
作る以前にそれが正確にどんなものかは、
誰にも予言できない。
もうひとつ、芸術には別の側面がある。
それは、
「作った本人がその価値を本当に理解しているとは限らない」
ということだ。
これは逆もあって、
「作った本人には分かる価値が、
その時代の人々には理解できない」
という問題もある。
ガリレオは魔女裁判にかけられたし、
ピカソの絵は売れなかった。
もちろん、
「作った本人だけが価値を主張するが、
どの時代でもどんな人々にも価値があるとは思えない」
というものもある。
また、
「価値は一元的に、ある/ないで示せるのではなく、
ある方面に価値があるが、他は出来が悪い」
というものもある。
とくに、「長所と短所が真逆のトレードオフになっている」
という場合も多く、それはその性質上の限界だったりする。
そのような、実装を無視したコンセプトだけの賢人会は、
そもそも絵にかいた餅の議論でしかない。
理想を言うのは誰にでも出来る。
実際にそれを作るのはまた難しい。
いくら、どれくらい必要か、
事前に100%見積もることは不可能だ。
理想の賢人会は、
「作る人」同士の集まりだ。
口だけ達者で作らない人を追い出すことだ。
そうすれば口三味線をカットできる。
しかし作る人同士の実力差があると、
前記事のようなバカが混じる可能性がある。
理想の賢人会は、全員が作る人で、
コンセプトから実装まで見えていて、
かつ、最終形が当初のコンセプトを上回ったとき、
それを拍手をもって迎える人たちである。
ところが、そんな賢人会は現実にはない。
じゃあ一人でコツコツ作るのがベストか?
僕はそうも思わない。
一人の天才が全部できればいいけど、
必ず何かの欠点は残る。
その人が一人で最後まで全うできるとも限らない。
現に、たった一人に任せて歪な出来になってしまった映画は腐るほどある。
理想はどうだろう?
全ての人間が集まること。
その場でコンセプトを確認し、
シンプルで強い言葉におとしこむこと。
それに従い現場が動くこと。
そのコンセプト通りに出来ればOK、
出来るならそれ以上のものが出来ること。
コンセプトに灯台を照らし、
そこに一直線に進み、後戻りはないこと。
最短距離で制作すれば、疲弊どころか喜びしかない。
現実はどうだろう。
賢人会はない。コンセプト会議はぐだぐだだ。
一人に任せればヨレヨレ。
せめて、私たちは一人で、ヨレヨレにならないことだ。
孤高の高潔さで、
愚人会と渡り合うことだ。
自分の直感をなるべく言葉にして、
あるいは、これはこういうことだね、
と言葉におとしこめる評論家を味方につけることである。
まずあなたが賢人会の一人目になること。
それ以外賢人会を作る方法はないだろう。
2017年08月28日
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