2017年08月30日

一人になるシーン

ストーリーはコンフリクトだ。
複数の人の間のもめごと、摩擦、呉越同舟、
争い、感情のもつれ、決着、などを描く。

だからひとつのシーンでは、必ず複数の人がいる。
もめること、摩擦があること、不服であること、考えを変えること、
決定すること、それに何かをいうこと、
などがシーンである。

原理上、だから一人のシーンなんていらない。
しかし、一人のシーンはとても印象的に使われる。



たとえば「ロッキー」の、鏡に自分を写しているシーン。
たとえば「スターウォーズ」の、ルークが二重太陽の日没にたそがれるシーン。
たとえば「ラピュタ」の、朝起きて鳩小屋を開けてトランペットを吹くシーン。

これらは、とても僕の好きな、「主人公が一人でいるシーン」だ。


一人でいるシーンは、冒頭で述べた通り、
ストーリー、つまりもめ事には必要ない。
一人ではもめないから。

小説などでは、心の中で葛藤することもあるけど、
映画では外面しか写せない為、心の中がどんなに嵐でも、
カメラが見る姿は「だまっている顔」のみだ。
そしてそれは「大変そう」ぐらいしか伝わらない為、
内面のもめごとは、映画では意味がない。
一人のなかのもめごとは、映画では描けない、
と切り捨てたほうが出来が良くなる。

たとえば内面のことを描くと、
「ツリーオブライフ」のように、
わけのわからない哲学的なものになってしまう。
映画ではこれはおもしろくない。
映画でおもしろいのは、誰かと誰かがもめたり、
事態がすすんでいくテンションである。

哲学的映画こそが映画だと思う人は、この脚本論は読む必要はない。
さっさとでていきたまえ。
そんなものは学生映画で死ぬほど見た。
それは作者の自意識を描くだけの自己満足映画にしかならない。
それは崇高なるエンターテイメント=人を楽しませるものとは、
真逆のものだ。オナニーとよく言われるよね。
そのことについて、僕はつねに意図的に排除している。


ということで、内面の葛藤などは、映画には「ない」。
あるけど、過程は飛ばして、
「あったゆえにこうなった」という結果から入り、あったことになる。

では、一人のシーンは、なんのためにあるのだろう。

それは、「その人が孤独をどう考えているか」に関係するような気がする。


人には、他人に見せる顔と、自分しか知らない自分がある。
公と私といってもよい。
公には、
「わたしは寂しくないですよ、わたしは弱くないですよ、
わたしはつらくないですよ」なんて顔をするものだが、
ほんとうのところはそうではない。
人は弱く、傷つきやすく、もろい生き物だ。

しかし他人がいては、その顔を見せることはない。
だから、一人のシーンでその真実を描くのだ。
(もっとも、ごく親しい人には、つらいとか傷ついたとか、
そういう心の深い部分を共有することもある。
恋人や家族とか。
そういう深い部分を知り、共有することが、
ふたりの絆の深さを示す表現になることも、もちろん定番の表現だ。
「ロッキー」では、
エイドリアンにベッドの中で試合前に弱音を吐くシーンがある。
これを第二ターニングポイントに使うあたりが、
スタローンの構成の冴えたポイントだ)


登場人物には目的と動機がある。
具体的な目的はストーリー上で示されるとして、
「そもそもどうしてそのことがしたいのか」
という動機に関しては、わざわざ「こうだから」と説明することはあまりない。
それは感じるべきものだ。
だから、
「ほんとうはこの人はこうだから、このことにこだわるのだな」
と、観客が想像して理解しなければならない。
それが読解の楽しみである。
そしてそれをたいていストレートに示しているのが、
一人になるシーンであるということ。

ロッキーは、「何者かになりたい」と考えていて、
「何者にもなれていない」と思っていて、
それに不安を感じている。
鏡を見詰めるシーンでは、それを我々は感じ取ることができる。
それは前のシーンで、
地下ボクシングでファイトマネーのほとんどを取られ、
傷ついたことと関係している。(モンタージュ)

ルークも、「何者かになりたい」と考えている。
養子である負い目と、大学に行きたいことの狭間でなやんでいる。
「自分がなにになりたいのか、知りたい」のだ。

パズーは、悩んではいない。
動物とともに暮らし、町の人々とは仲良さそうだ。
しかし朝を告げるラッパはどこか悲しい。
満足しているが満足していない感じ。
孤独とはそういうものかもしれない。
あの旋律がとても好きなのは、そういうことかもしれない。


これらがあるからこそ、
彼らの目的に、動機があることが分かる。

ロッキーが世界戦のオファーを受けるのは、
最初は単なるスパーリングパートナーぐらいだったけど、
「何者かになれる」かもしれないと思い、
人生の本気をはじめて出すわけだ。

ルークだって、姫を助けたいと思うことに、
美人の姫だということと、
たんなる親切で、ということと、
叔父の仇討ち、という以外に、
「何者かになれる」かもしれないという思いが、
奥底にあったはずだ。
(ちなみに、スターウォーズシリーズが、
まっとうな動機をもってストーリーを進めるのは、
この第一作(EP4)のみで、
その他、EP7に至るまで、動機なるものは存在しない。
だから子供の書いたようなおもちゃの作劇になってしまうのだ)

パズーは、ただトランペットを吹いていたわけではない。
のちに、死んだ父の飛行機をつくり続けていたことがわかる。
それは、冒頭の孤独のシーンを見れば、
自然に納得できることである。
冒頭からいきなり飛行機を作っていたら、
なんだか変人に見えてしまう。
しかし冒頭のラッパのシーンがあるからこそ、
我々は、自然に彼の飛行機づくりに納得がいく。



つまり、最初の方の「一人でいるシーン」は、
その後の行動の伏線になっている。
そのシーンが、あとのシーンの説得材料になっている訳だ。

だから、「一人でいるシーン」は、印象的でなければならない。
印象的であることは、伏線の条件だからだ。

この機能を果たす限りにおいて、
基本的に複数の人間が出てもめごとをしている、
映画という三人称構造の中に、
一人でいるシーンを効果的に入れることは可能だ。


へたくそは、主人公と作者の区別がついていないから、
自分を描いて、わかってほしいと甘えている。
そうではない。
あなたがどういう人なのかを、観客は知りたいのではない。
他人の、
目的の裏にあるほんとうの動機を、
印象深く記憶したいのである。
他人の、
ほかの人に見せない顔を知り、
その人への理解を深くしたいのである。

べたな例では、
いつも怖い不良が、
一人でいるときは捨て猫を拾う
(そしてそれを目撃するパターンがほとんど)、
ということでそれを描ける。

つまり、「一人でいるシーン」は、
のちのちの人間関係のなにかに使われるのである。

もちろん、それは感情移入に深く関係してくるよね。
秘密の共有が、その人と観客の間で行われるのだから。
posted by おおおかとしひこ at 18:41| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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