ストーリーはコンフリクトだ。
複数の人の間のもめごと、摩擦、呉越同舟、
争い、感情のもつれ、決着、などを描く。
だからひとつのシーンでは、必ず複数の人がいる。
もめること、摩擦があること、不服であること、考えを変えること、
決定すること、それに何かをいうこと、
などがシーンである。
原理上、だから一人のシーンなんていらない。
しかし、一人のシーンはとても印象的に使われる。
たとえば「ロッキー」の、鏡に自分を写しているシーン。
たとえば「スターウォーズ」の、ルークが二重太陽の日没にたそがれるシーン。
たとえば「ラピュタ」の、朝起きて鳩小屋を開けてトランペットを吹くシーン。
これらは、とても僕の好きな、「主人公が一人でいるシーン」だ。
一人でいるシーンは、冒頭で述べた通り、
ストーリー、つまりもめ事には必要ない。
一人ではもめないから。
小説などでは、心の中で葛藤することもあるけど、
映画では外面しか写せない為、心の中がどんなに嵐でも、
カメラが見る姿は「だまっている顔」のみだ。
そしてそれは「大変そう」ぐらいしか伝わらない為、
内面のもめごとは、映画では意味がない。
一人のなかのもめごとは、映画では描けない、
と切り捨てたほうが出来が良くなる。
たとえば内面のことを描くと、
「ツリーオブライフ」のように、
わけのわからない哲学的なものになってしまう。
映画ではこれはおもしろくない。
映画でおもしろいのは、誰かと誰かがもめたり、
事態がすすんでいくテンションである。
哲学的映画こそが映画だと思う人は、この脚本論は読む必要はない。
さっさとでていきたまえ。
そんなものは学生映画で死ぬほど見た。
それは作者の自意識を描くだけの自己満足映画にしかならない。
それは崇高なるエンターテイメント=人を楽しませるものとは、
真逆のものだ。オナニーとよく言われるよね。
そのことについて、僕はつねに意図的に排除している。
ということで、内面の葛藤などは、映画には「ない」。
あるけど、過程は飛ばして、
「あったゆえにこうなった」という結果から入り、あったことになる。
では、一人のシーンは、なんのためにあるのだろう。
それは、「その人が孤独をどう考えているか」に関係するような気がする。
人には、他人に見せる顔と、自分しか知らない自分がある。
公と私といってもよい。
公には、
「わたしは寂しくないですよ、わたしは弱くないですよ、
わたしはつらくないですよ」なんて顔をするものだが、
ほんとうのところはそうではない。
人は弱く、傷つきやすく、もろい生き物だ。
しかし他人がいては、その顔を見せることはない。
だから、一人のシーンでその真実を描くのだ。
(もっとも、ごく親しい人には、つらいとか傷ついたとか、
そういう心の深い部分を共有することもある。
恋人や家族とか。
そういう深い部分を知り、共有することが、
ふたりの絆の深さを示す表現になることも、もちろん定番の表現だ。
「ロッキー」では、
エイドリアンにベッドの中で試合前に弱音を吐くシーンがある。
これを第二ターニングポイントに使うあたりが、
スタローンの構成の冴えたポイントだ)
登場人物には目的と動機がある。
具体的な目的はストーリー上で示されるとして、
「そもそもどうしてそのことがしたいのか」
という動機に関しては、わざわざ「こうだから」と説明することはあまりない。
それは感じるべきものだ。
だから、
「ほんとうはこの人はこうだから、このことにこだわるのだな」
と、観客が想像して理解しなければならない。
それが読解の楽しみである。
そしてそれをたいていストレートに示しているのが、
一人になるシーンであるということ。
ロッキーは、「何者かになりたい」と考えていて、
「何者にもなれていない」と思っていて、
それに不安を感じている。
鏡を見詰めるシーンでは、それを我々は感じ取ることができる。
それは前のシーンで、
地下ボクシングでファイトマネーのほとんどを取られ、
傷ついたことと関係している。(モンタージュ)
ルークも、「何者かになりたい」と考えている。
養子である負い目と、大学に行きたいことの狭間でなやんでいる。
「自分がなにになりたいのか、知りたい」のだ。
パズーは、悩んではいない。
動物とともに暮らし、町の人々とは仲良さそうだ。
しかし朝を告げるラッパはどこか悲しい。
満足しているが満足していない感じ。
孤独とはそういうものかもしれない。
あの旋律がとても好きなのは、そういうことかもしれない。
これらがあるからこそ、
彼らの目的に、動機があることが分かる。
ロッキーが世界戦のオファーを受けるのは、
最初は単なるスパーリングパートナーぐらいだったけど、
「何者かになれる」かもしれないと思い、
人生の本気をはじめて出すわけだ。
ルークだって、姫を助けたいと思うことに、
美人の姫だということと、
たんなる親切で、ということと、
叔父の仇討ち、という以外に、
「何者かになれる」かもしれないという思いが、
奥底にあったはずだ。
(ちなみに、スターウォーズシリーズが、
まっとうな動機をもってストーリーを進めるのは、
この第一作(EP4)のみで、
その他、EP7に至るまで、動機なるものは存在しない。
だから子供の書いたようなおもちゃの作劇になってしまうのだ)
パズーは、ただトランペットを吹いていたわけではない。
のちに、死んだ父の飛行機をつくり続けていたことがわかる。
それは、冒頭の孤独のシーンを見れば、
自然に納得できることである。
冒頭からいきなり飛行機を作っていたら、
なんだか変人に見えてしまう。
しかし冒頭のラッパのシーンがあるからこそ、
我々は、自然に彼の飛行機づくりに納得がいく。
つまり、最初の方の「一人でいるシーン」は、
その後の行動の伏線になっている。
そのシーンが、あとのシーンの説得材料になっている訳だ。
だから、「一人でいるシーン」は、印象的でなければならない。
印象的であることは、伏線の条件だからだ。
この機能を果たす限りにおいて、
基本的に複数の人間が出てもめごとをしている、
映画という三人称構造の中に、
一人でいるシーンを効果的に入れることは可能だ。
へたくそは、主人公と作者の区別がついていないから、
自分を描いて、わかってほしいと甘えている。
そうではない。
あなたがどういう人なのかを、観客は知りたいのではない。
他人の、
目的の裏にあるほんとうの動機を、
印象深く記憶したいのである。
他人の、
ほかの人に見せない顔を知り、
その人への理解を深くしたいのである。
べたな例では、
いつも怖い不良が、
一人でいるときは捨て猫を拾う
(そしてそれを目撃するパターンがほとんど)、
ということでそれを描ける。
つまり、「一人でいるシーン」は、
のちのちの人間関係のなにかに使われるのである。
もちろん、それは感情移入に深く関係してくるよね。
秘密の共有が、その人と観客の間で行われるのだから。
2017年08月30日
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