2017年09月01日

なぜ登場人物の過去をつくるのか

私という自我の分裂を、うまくするためである。


複数の登場人物を扱っていると、
「全部自分と似たキャラになってしまう」という現象がある。

具体的に言えば、
「この台詞をどのキャラが言ったとしても成立する」
程度の台詞しかない、
みたいな現象だ。

漫画のテクニックのひとつに、
同じ写植文字と吹き出しの形だから、
どのキャラが喋っているか区別をつけやすいように、
語尾や口癖を与える、
というのがある。

そういうことではない。

この人物ならではの、考え方があるということ。


考え方とはつまり過去の蓄積である。
その人がこれまで考えてきたことが現れる。
その人の人生が出るわけだ。

たとえば、自己評価が高い人と低い人では、
ある場面での判断や行動の基準が大きく異なる。

「いいじゃん、やってみようぜ」と、
「いや、やめておいたほうがいい。うまく行くはずがない」と、
両極端に判断が分かれることになる。

それは、同じものを見て思うことだ。

なぜそう思うのか。
自己評価が高い人は、これまで自分の判断で成功してきた体験がある。
だから今回も成功すると、無意識に思うわけだ。
仮に失敗しても、また別のもので成功すればいいと考えている。

逆に自己評価が低い人は、失敗の経験のほうが多いのだろう。
だから成功のイメージが湧かず、
どうやっても失敗してきたから、
「失敗を避けよう」というのが行動の基準であることになる。
「成功しそうならやろうよ」というのと正反対になるわけだ。


これの精度をどんどん上げていけばいい。
得意なジャンル、たとえばギャンブルなら得意な人と、
論理や数学だけは得意な人が、
ギャンブルでも論理でもない問題に直面させたときに、
どういう反応をして、どう判断して、どう行動するかは、
まったく違うかもしれないし、
判断の根拠は違うものの同じ結論になるかもしれないということ。
もし二人がペアを組んでいたら、
ひとつしか結論を出せないので、
もめるだろう。(コンフリクト)
もめた結果、決定が存在し、そこに責任が発生する。
その結果が出た時、
「それみたことか」「いや、予想の範囲内ではあった」
などと、判断や次の行動も違ってくるはずだ。

それはつまり、過去の経験が違うからである。

これを「性格が違うから」と理解するのは、
人間への理解が浅いと思う。

性格というのは、
「どんな人生経験を経たかに関係ない、
生得的なもの」だと僕は考えている。

血液型診断や、星座占いや、四柱推命などによる性格診断は、
そのようなものを扱う。

たとえば獅子座は、
どんな社会に入ろうが、リーダーシップをとる。
過去に失敗しようがめげない。
自分がリーダーであれば集団が安定すると考えていて、
実際そのようになる。
若いころからそうなっているから、
実力と関係なく、リーダーでありたがる。
年を取ると判断力や分析力が弱点であることを知るので、
それに長けた人(乙女座や山羊座など)を腹心に置きたがる。
ただのイエスマン(魚座や蟹座、あるいは天秤座や双子座などの風見鶏)を置くと失敗しやすい。
しかし、どんな人に囲まれていても、
リーダーであろうとすることには、獅子座はぶれない。

しかし、恋のかけひきは違ったりする。
こういうことでうまくいったことなら得意だが、
こういうことで失敗したなら、避けようとするはずだ。
あるいは、友達の作り方やケンカの仕方や、
そもそもの人生の目標なんて、
それまでどういう人生を経験してきたかによるではないか。


だから基本性格の上に、
人生経験によるもう一段別のファクターが加わるというもの。

もちろん、それを全部ひっくるめて「性格」と呼んでしまってもいい。
他人から見てそれは違いが分からないからである。

しかし、あなたは違う。
他人から見ての姿だけでなく、
その人の内面に入って、
その人だったらどうするか、どう考えるか、どう感じるか、
どう心が痛むか、どう心が喜ぶか、を演じなくてはならないからである。

わざと「演じる」と書いた。
ストーリーを書くという行為は、
複数の人が行うなにごとかを、
作者が「演じ分ける」ということだと思う。

「この人はこういう性格だから、こう考えたり反応する」
と外からみて考えるのではない。
「おれは今〇〇の視点からこれを見ている。
どう思う?」
と、その人の内部に入らないとその人としてそれを見れない。
逆でもいい。
「自分の中に〇〇を憑依させて、その人の思考にハッキングされる」
と考えてもいい。
それは決して、性格設定表のような論理から生まれるのではない。
もっと原始的な、
「その人になる」という感じだ。

過去記事に、
「執筆とは分裂病の体験である」と書いた。
それはつまりこういうことだ。
役者は、自分にひとりだけ降霊すればいい。
しかし作者は、「全員」降霊させるのである。
それってつまり分裂病に近いことだ。

ということで、
それには単純に、「その人の現在の性格をインストール」
すればできるのではない。

「その人の過去を知り、
どうしてその人がそういう考え方になったかを知り、
その経験が現在の判断や感情にどういう影響を与えているかを知る」
ことをしないと、出来ないと思う。
何故なら、
「その人の無意識を覗く」ことだからだ。

自分自身が、
「〇〇を過去に経験したので、こういう性格になりました」
なんて理解している人はない。
それは無意識下にあり、普段は無自覚である。
しかしどうしようもない感情に流されて、
普段ではやらないことまでした場合、
それはその人の無意識がさせていることが多い。

たとえば、「幼少期の怒られ方で、人を怒る人」は、
ほとんど無意識にそうしている。
普段怒られているのと同じ怒り方で、へまをした人を怒る人もいるよね。
それは理屈でなく、感情だから、無意識なんだ。


演じる、とは、理屈でもあるが、
そういう無意識に出てきたものを表現することでもある。
理屈じゃない部分を描くのが物語でもある。


ということで、
その人物の過去の体験や反省や痛い目や成功体験や全能感などの、
その人の考え方や感じ方などの、
無意識の理由になっていることを、
さぐっておくことはとても大事になる。

さぐる、というか、自分で作るんだけど、
意識としては、
すでにできているキャラクターに逆行催眠をかけて、
どうしてそのように考えるようになったのか、
過去を告白してもらう感じだ。

そのとき、はっきりしていないキャラクターがいれば、
過去を詳しく作っていくことで、
より現在の性格が際立ってくることがある。
過去と現在はペアで存在するようになるわけだ。

そこまで行けば、
自我を分裂させて、別々のキャラクターを演じることが、
可能になるというものだ。
多くの人は、物語の後半になればなるほど、
「キャラクターが勝手に動き出す」という経験をしたことがあるだろう。
それは、
「自分がそれらのキャラクターと、無意識でつながった」
ことと同じことを言っていると僕は考えている。

俳優も、同じ経験をする。
しかし俳優は二役でない限り、一人の人物だ。
作者は、全員と無意識でつながるのである。
それは、まあ分裂症だね。


で、冒頭の症状、
上手じゃない人の特徴、「全部自分と似たキャラになってしまう」
現象の正体は、
つまりこれをやっていない、という浅さの暴露なのだね。

全員自分と似た過去や経験があり、
自分と似た感じ方や哲学を持っていて、
自分と似た感情の動きしかしないなら、
それは「一人の人物」でしかない。
「他人がたくさんいる」という状況ではない。

だからストーリーが平板になってしまう。
それは他人同士のぶつかり合いではなく、
一人が考えて一人が行動しているだけだから。

だからご都合になってしまう。
同じ考えとつもりで行動するから、
全部自分の考えが実現していくからだ。

逆に、ご都合でないストーリーとは、
「全部自分の考えが実現しない」という前提で、
どうしていくかを考えることだ。
それには、他人の協力を仰いだり、他人を説得したり、
他人を排除したり、他人に絡まれたり、
そういうことを突破しなければならないということなのだ。


逆に。
十分に自我が分裂していれば、
ある人が発言したら、
全く違うことを発言しだすだろう。
一言二言で、すぐにもめだすだろう。
コンフリクトなんて、数秒で起こる。
さらに言うと、これが起こり始めると、
話がまとまらなくなっていく。
だって、なかなか複数の人は、意思統一ができないからだ。

これをどう意思統一にもっていくかが、
物語なのである。


断っておくと、
こうやって分裂症になったら、
危険であるよ。
物語を完結しないと、ずっとその症状に悩まされることになる。
精神病としての分裂病の定義は、
「社会生活を営めないほどの重度」であるから、
そこまでいかないことが多いけど、
ボーダーのケースは沢山ある。
「コミケに合わせて、推しキャラの二次創作をする」とか、
「終わらない物語で、ずっとそれを書いている」とか。
(それが社会生活を圧迫すれば、それは精神病の定義に入っていしまう。
多かれ少なかれそういう傾向がある、
ということは安心材料として覚えておくといい。
しかしそれが度を過ぎて社会生活が営めない、
というレベルだと通院したほうがいいということ)


実のところ、これを一発で治す、簡単なやり方がある。
「完結させる」である。

物語の完結とは、
その複数の人の目的や動機が、
すべて大団円で決着がつくことである。
つまり、昇華される。

色々あったけど、全部ハッピーエンド、
にどうできるかは、
観客にとっても重要だが、
実は作者にとっても大事なのである。

一人不幸のままいれば、
それがスピンオフになってまた書きたくなるというものだ。
そうやって、
続編地獄にはまっていくのだ。

傑作「デビルマン」をものにした永井豪は、
デビルマンのラストがあまりにも衝撃過ぎたため、
その自我の分裂(不動明と飛鳥了とその他)
が止まらず、十年その幻影がちらつくこととなった。
「バイオレンスジャック」は、
その幻影を振り払おうと書いた作品であったが、
まったく別の世界のことであったのに、
主人公はデビルマンの生まれ変わりであったのだ、
という、デビルマンの呪縛から逃れられないトンデモ落ちになってしまった。
(ネタバレすいません)

どころか、デビルマンはいまでも彼にまとわりついているとすらいえる。

あるいは平井和正論を立てた時、
結局彼は、主人公東丈のプレッシャーから逃れる為に、
別の東丈の人格を分裂させ、
結局統合できずに幻魔大戦を放り出したのだ、
と僕は結論付けた。
東丈のストーリーを、素直にハッピーエンドにもっていけばよかったのだと僕は思うのだが、
そのリアルな解決のカタルシスを思い浮かばなかったことが、
その敗因であると思う。
つまり、分裂させた全ての自我を、
全員幸福にする大団円が、
まったく想像できなかったということだ。
これは、作家としての敗北だと断じてもよい。

もちろん、幻魔大戦が書かれていた70年代〜80年代は、
高度成長の逆の価値観、不安が尊ばれていた背景もある。
(僕の80年代の象徴は、大友克洋の「童夢」だ)
だとしたら、そのうちにバッドエンドで終わらせておけばよかった。
しかし完成が、時代の変化に取り残されたのだ。
作中の年代はたしか1960年代だった。




なぜ、過去をつくるのか。
なぜ、過去をつくり、その人の考え方や感じ方をつくるのか。

複数の人が同居する、
この現実社会をシミュレーションするためである。

シミュレーションだから、まったく同じでなくてもいい。
現実のどこを省略して、どこを残すかは、
作者の配分という裁量だ。
それが、作者がどうこの世界をとらえているかという、
いわば作風となる。


自我の分裂は、そのためにする。
作品の中からうまく帰還するには、
大団円まで行くしかない。

つまり、物語を本気で書くという行為は、
大変危険な行為である。

自己責任でやれ。
帰還して着地するまでが物語だ。
空中分解するのは、物語でない。
それはあなたを空中分解させる。

警告はした。



僕が、発端と結末からつくる方法を勧めているのは、
少なくとも空中分解を避けられるからである。
posted by おおおかとしひこ at 13:45| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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