行動する人、というと、
陽気で積極性のある、
理想の人物のようなものしかイメージ出来ないかも知れない。
ハリウッド映画では、そのようなヒーロータイプが主人公として、
好まれる傾向にある。
「主人公」という言葉を、アメリカ映画ではheroと呼ぶことから、
それは分かる。
だけど、それだけじゃないんだよな。
ハリウッド映画のヒーロータイプは、
主人公のひとつの形式に過ぎない、
ということだ。
典型的なのは、
陽気で積極性があり、明るく、モテて、
アメフトのクォーターバックをやってて、
チアリーダーの一番かわいい子と付き合っている。
リーダーシップがあり、チームをまとめる理想のリーダーで、
義理に厚く、弱気を助け、正義感が強い。
ついでに熱心なキリスト教徒だ。
アクション映画のヒーローになりそうな人が、
アメリカ映画の理想の主人公である。
しかし、物語はそれだけではない。
人の暗いところや、必ずしも明るくなりきれないところにこそ、
人の心の襞があるというものだ。
そしてたいがい、ヨーロッパや日本の映画は、
それを好む傾向にある。
僕は、人の心を明るくとらえようが、暗くとらえようが、
それがハッピーエンドだろうが、バッドエンドだろうが、
それに優劣はないと考えている。
面白いほうが勝ちであると。
ただし、出来れば世の中を良くしていく作品を選びたいだけだ。
作者の自己満足で、暗くバッドエンドになるようなものは、
最低だ。勝手に死ね。
物語は、誰かに見られることを想定している。
出来るだけ多くの人に見られることを想定している。
だとしたら、世の中を良くしていくものが、
流通し、良い循環が生まれるべきだ。
それを志といっていいのかもしれないが。
本題に戻ろう。
仮にヒーロータイプだったとしても、
一切弱音を吐かず、泣き言も言わず、
感情を圧し殺し、積極的に行動し続けなければならないわけではない。
そんな一方向のものしか描かないのなら、
それは人間を描いているとはいえない。
人間とは多面だ。
ある方向もあり、ある方向もあり、
それらが矛盾しながらも、統一的な何かがあって、
それが回転しながら変化していく。
「このキャラはヒーローだから、消極的にならない」
などと言う人があれば、
それは人間を知らない証拠だ。
ヒーローだって消極的になったり甘えたくなるさ。
それが人間だ。
しかし支離滅裂になってはダメだ。
どういう文脈でどう考えるのかが、人間だ。
そこに首尾一貫があればいいだけだ。
積極一辺倒の首尾一貫ではなく、
「その人らしさ」が首尾一貫していればいい。
そして、文脈によっては、「その人らしからぬ行動や反応」がある。
そこに納得できる何かがあれば、それが首尾一貫だ。
納得できない支離滅裂は、首尾一貫とは言わないだけの話である。
ということで、
登場人物は、積極的に行動する、ラッセル車のような人物であるとは限らない。
時にはずるいことをしたり、
秘密を言わなかったり、
甘えたり、他人に何かしてもらったり、助けてもらったり、
社会的に良くないことをしたり、
あるいはただ逃げていたりする。
ただし。
その責任だけはとらないといけない。
登場人物は他人だ。
おそらく最大にそいつらが嫌いになるのは、
責任を回避するときじゃないか。
そして多分そいつが信頼できるのは、
責任をとろうとする時じゃないか。
(出来ない責任を負いこむのはバカだ)
あるいは、ダメな男すら魅力がある。
何故かダメな男は女から一定の評価がある。
ダメな女は男から嫌われるのにな。
アウトローに魅力を感じることもあるしな。
いずれにせよ、
行動するのは、積極的に正しい理由で行動するのに、
限らなくていい。
注意すべきは、その行動にバラエティーがあったほうがいいということ。
何故なら、同じ行動を何回もしていたら、
飽きるからだ。
それはすなわち停滞であるからだ。
ストーリーとは生成流転である。
停滞こそストーリーの敵。
引きこもりが引きこもっているだけなのは、
ストーリーではない。
引きこもりはただの設定。
引きこもりがドアの外に出てからが、ストーリーだ。
それは第二幕以降の、3/4を占めるパートで描かれる。
リア充でない人は、
引きこもっているストーリーしか書けないことが多い。
それはそれしか知らないからだ。
書を捨てよ町に出よう、という寺山修司の名言は、
そういうことを言っている。
ちなみにネットは町ではない。
行動が必要じゃない世界だからね。
書を捨てるまでがストーリーではなく、
書を捨ててからがストーリー。
映画という物語は、人生の写し鏡である。
あなたのつまらない人生の写し鏡でなく、
興味深くて魅力がある人物の、
決して誉められたものでない行動が、
最終的にどうなったかを描く、写し鏡である。
2017年09月05日
この記事へのコメント
コメントを書く