2017年09月05日

行動と積極性

行動する人、というと、
陽気で積極性のある、
理想の人物のようなものしかイメージ出来ないかも知れない。

ハリウッド映画では、そのようなヒーロータイプが主人公として、
好まれる傾向にある。
「主人公」という言葉を、アメリカ映画ではheroと呼ぶことから、
それは分かる。

だけど、それだけじゃないんだよな。


ハリウッド映画のヒーロータイプは、
主人公のひとつの形式に過ぎない、
ということだ。

典型的なのは、
陽気で積極性があり、明るく、モテて、
アメフトのクォーターバックをやってて、
チアリーダーの一番かわいい子と付き合っている。
リーダーシップがあり、チームをまとめる理想のリーダーで、
義理に厚く、弱気を助け、正義感が強い。
ついでに熱心なキリスト教徒だ。

アクション映画のヒーローになりそうな人が、
アメリカ映画の理想の主人公である。

しかし、物語はそれだけではない。
人の暗いところや、必ずしも明るくなりきれないところにこそ、
人の心の襞があるというものだ。

そしてたいがい、ヨーロッパや日本の映画は、
それを好む傾向にある。

僕は、人の心を明るくとらえようが、暗くとらえようが、
それがハッピーエンドだろうが、バッドエンドだろうが、
それに優劣はないと考えている。

面白いほうが勝ちであると。
ただし、出来れば世の中を良くしていく作品を選びたいだけだ。

作者の自己満足で、暗くバッドエンドになるようなものは、
最低だ。勝手に死ね。

物語は、誰かに見られることを想定している。
出来るだけ多くの人に見られることを想定している。
だとしたら、世の中を良くしていくものが、
流通し、良い循環が生まれるべきだ。
それを志といっていいのかもしれないが。


本題に戻ろう。
仮にヒーロータイプだったとしても、
一切弱音を吐かず、泣き言も言わず、
感情を圧し殺し、積極的に行動し続けなければならないわけではない。
そんな一方向のものしか描かないのなら、
それは人間を描いているとはいえない。
人間とは多面だ。
ある方向もあり、ある方向もあり、
それらが矛盾しながらも、統一的な何かがあって、
それが回転しながら変化していく。

「このキャラはヒーローだから、消極的にならない」
などと言う人があれば、
それは人間を知らない証拠だ。
ヒーローだって消極的になったり甘えたくなるさ。
それが人間だ。
しかし支離滅裂になってはダメだ。
どういう文脈でどう考えるのかが、人間だ。
そこに首尾一貫があればいいだけだ。
積極一辺倒の首尾一貫ではなく、
「その人らしさ」が首尾一貫していればいい。
そして、文脈によっては、「その人らしからぬ行動や反応」がある。
そこに納得できる何かがあれば、それが首尾一貫だ。

納得できない支離滅裂は、首尾一貫とは言わないだけの話である。


ということで、
登場人物は、積極的に行動する、ラッセル車のような人物であるとは限らない。

時にはずるいことをしたり、
秘密を言わなかったり、
甘えたり、他人に何かしてもらったり、助けてもらったり、
社会的に良くないことをしたり、
あるいはただ逃げていたりする。

ただし。
その責任だけはとらないといけない。

登場人物は他人だ。
おそらく最大にそいつらが嫌いになるのは、
責任を回避するときじゃないか。
そして多分そいつが信頼できるのは、
責任をとろうとする時じゃないか。
(出来ない責任を負いこむのはバカだ)

あるいは、ダメな男すら魅力がある。
何故かダメな男は女から一定の評価がある。
ダメな女は男から嫌われるのにな。
アウトローに魅力を感じることもあるしな。


いずれにせよ、
行動するのは、積極的に正しい理由で行動するのに、
限らなくていい。
注意すべきは、その行動にバラエティーがあったほうがいいということ。
何故なら、同じ行動を何回もしていたら、
飽きるからだ。

それはすなわち停滞であるからだ。
ストーリーとは生成流転である。
停滞こそストーリーの敵。

引きこもりが引きこもっているだけなのは、
ストーリーではない。
引きこもりはただの設定。
引きこもりがドアの外に出てからが、ストーリーだ。
それは第二幕以降の、3/4を占めるパートで描かれる。


リア充でない人は、
引きこもっているストーリーしか書けないことが多い。
それはそれしか知らないからだ。

書を捨てよ町に出よう、という寺山修司の名言は、
そういうことを言っている。
ちなみにネットは町ではない。
行動が必要じゃない世界だからね。
書を捨てるまでがストーリーではなく、
書を捨ててからがストーリー。


映画という物語は、人生の写し鏡である。
あなたのつまらない人生の写し鏡でなく、
興味深くて魅力がある人物の、
決して誉められたものでない行動が、
最終的にどうなったかを描く、写し鏡である。
posted by おおおかとしひこ at 12:42| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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