せっかく完成していたじゃんけんに、
四手目の手を加えてしまうような行為。
これは、間違ったリライトだ。
どうして完成度が高いじゃんけんに、
四手目を加えてしまうのだろう。
「じゃんけんをすでに知っている人を前提にして、
それにアレンジを加えてしまう」からである。
全ての人は、じゃんけんが初見だと考える。
そういう人たちにむけて大事なことは、
じゃんけんのルールを把握してもらうことだ。
みっつのうち好きな手をだすこと。
グーはチョキに勝ち、チョキはパーに勝ち、パーはグーに勝つこと。
あいこならもう一回。
これを決着がつくまでやる。
戦略はとくにないが、公平に等確率で決着をつける、
コイントスより合理的な方法だということ。
しかも複数いてもできる方法だということ(あいこが増えるけど)。
これらのことを把握して、
かつ何回かやってみない限り、
じゃんけんを楽しむことはできない。
これが第一稿で、初見だ。
しかし、
ヘタなリライトは、この人たちに、
「じゃんけんには四手目がある。それをQとする。
Qはグーに勝つ。グーはチョキに勝つ。チョキはパーに勝つ。
パーはQに勝つ」
と説明するようなものである。
しかし、「Qとチョキが来たら?」
と、新たな矛盾を指摘されて、
それにまた言い訳を新たに作り、都合合わせの連鎖を繰り返すようなものだ。
それは、正しいリライトではない。
正しいリライトとは、
本来の、じゃんけんをうまく魅力的に説明する方法だけなのだ。
それなのに、四手目を加えてしまう心理とはなにか。
おそらく、自信のなさだ。
なにか足りないから、足そうとしてしまう心理だ。
これは、せっかくのじゃんけんという完成された第一稿を、
台無しにしてしまう行為である。
自信を失わずに、ちゃんと世界を構築すればいいのに、
ついつい足してごまかそうとするのは、
間違ったリライトである。
もちろん、じゃんけんの二手しかできてなくて、
足りない原稿もあり得る。
その時に三手目を足して完璧な作品になることもある。
今の状態がどうかについて、
客観的に見れるかどうかということが、
どれだけ大切か、
分かるというものだ。
あなたのリライトは、四手目を足す愚行なのか。
それとも三手目を奇跡的に思いついて足す行為なのか。
それは、プロットのときに正解があるはずだ。
プロット段階でそもそもそれができていないのなら、
原稿が出来上がってからは手遅れだったりする。
それをどうにか、あとでは出来ないので、
四手目を足すことで、
新しいことをしたような気になっているだけなのだ。
自信のなさが、迷いを生じさせる。
スポーツでも執筆でもおなじ。
客観的に見ているコーチがいればいいのだが、
そうそういいコーチはいない。
シナリオ教室にかよっても、その先生がそれだけの眼力があるかどうか、
なんとも言えないね。
我々は、つねに暗闇を疑心暗鬼で進むしかない。
灯台は、プロットの時に見えた、「これ、面白そう」という確信しかない。
できるだけ、それがどうして面白いと思ったか、
最初にメモしておけば、
その思いに忠実に書くことが出来て、
四手目を足す必要はないということがわかるだろうね。
2017年09月09日
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