2017年09月11日

事件と解決、主人公、テーマという三位一体

前記事の続き。

結局、「ストーリーを考える」ということは、
ここに帰着すると思う。

骨格を考え、それが出来たと確信するのは、
この三位一体が機能すると確信したときだけだ。


ストーリーを考えるということは、
面白げな事件を創作(あるいは実際のものをアレンジ)して、
その面白げな展開と解決を作る、
ということだけではない。

それは是非とも必要だけど、それだけではまだ1/3である。

残り1/3の要素は、主人公だ。
どういう人がそれを見事に解決するのがいいのか、
ということを考えなければならない。
つまり、主人公と、事件〜解決の、ベストマッチ、
意外なマリアージュを考えなければならない。

子供を誘拐された事件を解決するのは、
元軍人の最強エージェントなのか、
よぼよぼのじいさんなのか、
女子高生なのか、
ストーリーと主人公のベストマッチを考えなければならない。

そして、大抵、
「その事件解決に最も効率よく相応しい人」ではなく、
「何で俺がこんな目に会わなきゃいけないの?」
という、「一番合ってない人」が主人公になることが多い。

それは、その方が面白いからだ。

凶悪犯罪事件を解決するのは、元軍人のスペシャリスト、
というのは、当たり前すぎて面白くない。
(初めてこれを描くときのみ、これは機能するが)
だから、大抵は、凶悪でも犯罪でも無い人が、
これを解決するはめになる。

代表的なのはダイハードだろうね。
離婚を抱えたオジサン警官が、
ニューヨーク一のテロ事件解決に巻き込まれるわけだから。
もちろん、10才の少年期でもいいよ。
しかしそれでは解決は難しいだろう。
すぐ殺されて終わりだ。
だから、主人公は、
「最も解決にふさわしくない人間で、
しかも、ギリギリ頑張れば解決できる」
という人間が相応しい。

その「泥のようなギリギリの頑張り」が、
映画の展開部になるとすれば考えやすい。


さて、じゃあ、
ギリギリ頑張れば解決できそうな、
その事件から最も遠い主人公が、
見たこともないヘンテコな事件に巻き込まれ、
それをなんとかして見事に解決すれば、
それはストーリーだろうか?

まだ、2/3であると考える。

最も大事な芯、テーマがないからだ。


テーマとはなんだろう。
この定義しがたいもの、
うまく表現できないものについて、
僕は何度かここで定義することに挑戦している。

それはテーゼ(○○は○○である、という命題)で示され、
作中には明示されることないくせに、
それを見終えたらそれが真ん中にあるようなもののことをいう。

最も簡単なものは、
主人公に最初は個人的な問題を負わせることだ。
不足、渇き、性格的問題、人生観の歪みなどを持たせておいて、
事件に巻き込まれたあと、
これを解決するには自分の個人的問題を克服しない限り無理、
という状況に押しやって、
個人的問題の解決と事件解決を(ほぼ)同時にすることである。

たとえば「ズートピア」においては、
主人公は差別の問題について果敢に挑戦しているのだが、
いざキツネとの具体的なことになると、
「自分の中に差別がある」ということを発見する。
これが内的問題である。
具体的な事件解決は、行方不明事件の解決だが、
その行方不明事件が差別問題拡大の事件であることがわかり、
このストーリーの本当の解決とは、
「主人公の心からも、社会からも、差別がなくなること」
ということになってゆく。

つまりテーマは差別撤廃、具体的解決としては、
「多様性を認めよう」だ。

良くできたストーリーは、
つまり、テーマと主人公と事件と解決が、
三位一体になっているのである。

そのどの要素が欠けても成立しないし、
それらは同じことの別の側面なのである。
別々のものなのに同じもののことだ。

これが良くできたストーリーだ。


そういえばシンゴジラを徹底的に批判したとき、
僕の中にはこのことがあったのだが、
うまく言葉に出来ていなかった。

シンゴジラは事件と解決は面白い。
CGも良くできていた。
だが主人公になんの魅力もなく、
抱えたテーマは「全能感の発露」という幼児的なものだった。
つまり、幼児がラッキーにも指揮権を得て、
事件を解決する物語だった。

「人々が集団で仕事をする素晴らしい日本」は、
作中で描かれたのはモチーフでしかなく、
テーマではなかった。
逆に、あの主人公でない人間なら、
シンゴジラは「人々が集団で仕事をする素晴らしい日本」という、
テーマを描けた可能性がある。
プロジェクトXみたいなストーリーなら、
とても面白かったかもしれない。
たとえば軍事戦闘など一切描かず、
資材調達や食料確保や、コンビニに何かを届けるとか、
そういう地味だが秩序を保とうとする人の群像劇ならば、
そういうテーマを描けただろう。
しかも、それぞれの人が、
物語当初は「仕事は自己実現だからこんな誰でも出来る仕事なんて価値がない」
なんて所からスタートすれば、
「やらなければならないことを、自己を殺してでも淡々とやる」
というテーマ性に結び付いたはずだ。

つまり、シンゴジラは事件と解決の1/3は準傑作だが、
残り2/3については、自主映画なみのメアリースーだったと言えよう。

事件と解決は、
主人公やテーマを描くための背景でしかない。
しかし、事件と解決が面白くないと、
ストーリーは見向きもされない。

三位一体でないと、
ストーリーは面白くもなんともないのだ。




自分のストーリーを練っていくとき、
この三要素について練っていくといい。

それは本当に面白い事件と解決か?
それは本当に魅力的な主人公か?
事件と解決と最も遠く、しかもギリギリ頑張ればいけそうか?
そして、その主人公の抱える内的ストーリーと、
事件と解決は、どこかで重なりあうか?
その事件解決は、まるでその主人公がすることを、
運命づけられたかのように、
結局は収束していくか?

色々な要素を足したり引いたり変更したりして、
これらの三要素を練っていくとよいだろう。

三つのマリアージュが出来たら、
サブプロットを練り初めて、さらに発展させていくといい。
大体出来たらプロットにまとめあげ、
さらに数稿練っていくことになるだろう。
それにしても、その芯にあるのは、
事件と解決、主人公、テーマの三本柱かつ三位一体であろう。
posted by おおおかとしひこ at 13:14| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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