エキセントリックなほうがいいのだろうか。
まともなほうがいいのだろうか。
僕はその組み合わせだと考えている。
エキセントリックなものを創るのは、
天才だけに許された所業である。
だから僕は「エキセントリックなものの作り方」
について語ることは出来ない。
精々、
常識を外して考えろとか、
人と逆を行けとか、
意外なものを組み合わせろとか、
夢で見た異常を使えとか、
ネジを三本緩めろとか、
子供の発想を学べとか、
毎日一個はエキセントリックな発想をしろとか、
批判をせずに自由に考えろとか、
そういうアドバイスをするだけだ。
エキセントリックに法則はない。
法則の外にあるのがエキセントリックだ。
法則を逸脱することがエキセントリックだ。
創造とは常識の外に飛び出ることだ。
エキセントリックこそ創造そのものだ。
それが思いつかないから、
ドラッグの力を借りる人もいるくらい、
エキセントリックは難しい。
(ちなみに言っておくと、ドラッグで得られる変成意識は、
おそらく夢で得られる変成意識とかなり似ている。
だからドラッグをやらなくても、
夢日記をつけておけばいい。
毎日つけなくていいので、
印象に残ったやつだけでいい。
変成意識には覚醒レベルが色々あるから、
ドラッグやったからって朦朧とするだけの場合もあり得る)
ということで、
ある種のエキセントリックな何かを得られた所から、
創作はスタートだ。
絵画や音楽や彫刻などと違い、
ストーリーは時間軸を持つ。
音楽は時間軸が破綻してもいい。
ボーカルありだと難しいが、インストなら行けるだろう。
プログレというジャンルもあった。
おそらくあらゆる芸術の中で、
ストーリーだけが、破綻が許されないものである。
勿論、過去には「破綻するストーリー」
という実験的模索の歴史はあった。
不条理、などとそれらは呼ばれた。
「ゴドーを待ちながら」という不条理演劇は、
古典中の古典だから読んでみるといい。
あるいは、別役実は、不条理演劇を沢山つくっている。
映画でも破綻するストーリーこそがいい、
というアングラな流行があった。
アメリカンニューシネマは、
普通の生き方は詰まらなすぎると考えた、
若い世代にビビッドに響いた。
でも結局普通じゃない生き方をするから、
破滅する、というラストしかない。
「俺たちに明日はない」「明日に向かって撃て!」
「テルマ&ルイーズ」(時代は違うが同工異曲)
辺りが分かりやすいかな。
「イージーライダー」「タクシードライバー」「ゴッドファーザー」
辺りも追加。
共通するのは、アウトローである。
ロー(秩序や法律や普通)の外、という意味だ。
犯罪者かも知れないが、
彼らはエキセントリックな生き方をしたのだ。
で、この時代のものは、ヒッピーカルチャー、
つまりドラッグと関係がある。
全部まとめて、エキセントリックな生き方、
法則に縛られないものを、
皆が求めた時代があった。
日本で言えば歌舞伎の心中ものがそうだ。
法則(家に決められた許嫁)に逆らって、
好いた人と結ばれるのは、
エキセントリックな生き方だった。
不条理が喜ばれた時代は、
条理の世界が強固に存在し、
揺るがないものであった。
エキセントリックとは、
これに対するカウンターカルチャーだったんだね。
ところが。
今、エキセントリックなだけでは、
面白くないと僕は考えている。
それは、現実がおかしなことになっていて、
ぐらぐらと揺れているからだ。
日本はやばいんじゃないか。
移民を入れるのか。
2045年は来るのか。
資本主義の限界、つまり上級国民と貧乏の格差の広がりすぎ。
金融の矛盾。パナマ文書ってなんだっけ?
ホリエモンあたりから、
明らかに基盤の何かがぐらぐらしている。
現実のほうがエキセントリック過ぎて、
想像によるエキセントリックでは、
太刀打ち出来ない時代に突入している気がする。
そもそも、
エキセントリックなだけでは、作品は成立しない。
エキセントリックなボケに対して、
まともなやつのツッコミを用意せよ、
とよく言われる。
それは、
エキセントリックなことが、その作品内では当たり前のことなのか、
それとも作品内でも異常なことなのか、
距離感をつかめなくなるからだ。
エキセントリックなことに対して、
「なんでやねん」「おかしいやろ」「異常か」「なにい」と、
まともな立場からのツッコミがない限りは、
どんなにエキセントリックなことをやっても、
エキセントリックだと認識されない。
エキセントリックとは、常識からの距離で測られるからである。
さて、今、まともな地盤であるべき常識が、
強固でなくなってきている。
こんな時代の、エキセントリックなあり方は、
作家としての立場の表明のようなものだ。
何がまともなことなのか。
そしてそれを離れた常識外のエキセントリックとは何か。
この両輪をしっかりさせないと、
作品を成立させることが難しくなってきている。
かつてはまともがしっかりあった。
今はしっかりない。
だから、まずまともを(作品内で)しっかりさせてから、
エキセントリックなことをする、
という二段階の完成度を要求されるようになったのだ。
ただエキセントリックなだけでは基地害扱いされる。
それが現代だ。
ということで、
分裂する真逆のベクトルを、あなたは描かなくてはならない。
強固な現実というまとも。
(このまともは、作品が始まって終わるまであるだけでいい)
エキセントリックというまとも破り。
分裂するけれど、
やらなくてはならないこと。
これに比べれば、「理由なき反抗」なんて児戯だ。
2017年09月12日
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