2017年09月12日

エキセントリックとまとも

エキセントリックなほうがいいのだろうか。
まともなほうがいいのだろうか。
僕はその組み合わせだと考えている。


エキセントリックなものを創るのは、
天才だけに許された所業である。
だから僕は「エキセントリックなものの作り方」
について語ることは出来ない。

精々、
常識を外して考えろとか、
人と逆を行けとか、
意外なものを組み合わせろとか、
夢で見た異常を使えとか、
ネジを三本緩めろとか、
子供の発想を学べとか、
毎日一個はエキセントリックな発想をしろとか、
批判をせずに自由に考えろとか、
そういうアドバイスをするだけだ。

エキセントリックに法則はない。
法則の外にあるのがエキセントリックだ。
法則を逸脱することがエキセントリックだ。
創造とは常識の外に飛び出ることだ。
エキセントリックこそ創造そのものだ。

それが思いつかないから、
ドラッグの力を借りる人もいるくらい、
エキセントリックは難しい。
(ちなみに言っておくと、ドラッグで得られる変成意識は、
おそらく夢で得られる変成意識とかなり似ている。
だからドラッグをやらなくても、
夢日記をつけておけばいい。
毎日つけなくていいので、
印象に残ったやつだけでいい。
変成意識には覚醒レベルが色々あるから、
ドラッグやったからって朦朧とするだけの場合もあり得る)

ということで、
ある種のエキセントリックな何かを得られた所から、
創作はスタートだ。


絵画や音楽や彫刻などと違い、
ストーリーは時間軸を持つ。
音楽は時間軸が破綻してもいい。
ボーカルありだと難しいが、インストなら行けるだろう。
プログレというジャンルもあった。

おそらくあらゆる芸術の中で、
ストーリーだけが、破綻が許されないものである。

勿論、過去には「破綻するストーリー」
という実験的模索の歴史はあった。
不条理、などとそれらは呼ばれた。

「ゴドーを待ちながら」という不条理演劇は、
古典中の古典だから読んでみるといい。
あるいは、別役実は、不条理演劇を沢山つくっている。

映画でも破綻するストーリーこそがいい、
というアングラな流行があった。
アメリカンニューシネマは、
普通の生き方は詰まらなすぎると考えた、
若い世代にビビッドに響いた。
でも結局普通じゃない生き方をするから、
破滅する、というラストしかない。
「俺たちに明日はない」「明日に向かって撃て!」
「テルマ&ルイーズ」(時代は違うが同工異曲)
辺りが分かりやすいかな。
「イージーライダー」「タクシードライバー」「ゴッドファーザー」
辺りも追加。

共通するのは、アウトローである。
ロー(秩序や法律や普通)の外、という意味だ。
犯罪者かも知れないが、
彼らはエキセントリックな生き方をしたのだ。
で、この時代のものは、ヒッピーカルチャー、
つまりドラッグと関係がある。
全部まとめて、エキセントリックな生き方、
法則に縛られないものを、
皆が求めた時代があった。

日本で言えば歌舞伎の心中ものがそうだ。
法則(家に決められた許嫁)に逆らって、
好いた人と結ばれるのは、
エキセントリックな生き方だった。

不条理が喜ばれた時代は、
条理の世界が強固に存在し、
揺るがないものであった。
エキセントリックとは、
これに対するカウンターカルチャーだったんだね。


ところが。



今、エキセントリックなだけでは、
面白くないと僕は考えている。

それは、現実がおかしなことになっていて、
ぐらぐらと揺れているからだ。
日本はやばいんじゃないか。
移民を入れるのか。
2045年は来るのか。
資本主義の限界、つまり上級国民と貧乏の格差の広がりすぎ。
金融の矛盾。パナマ文書ってなんだっけ?
ホリエモンあたりから、
明らかに基盤の何かがぐらぐらしている。

現実のほうがエキセントリック過ぎて、
想像によるエキセントリックでは、
太刀打ち出来ない時代に突入している気がする。



そもそも、
エキセントリックなだけでは、作品は成立しない。
エキセントリックなボケに対して、
まともなやつのツッコミを用意せよ、
とよく言われる。
それは、
エキセントリックなことが、その作品内では当たり前のことなのか、
それとも作品内でも異常なことなのか、
距離感をつかめなくなるからだ。
エキセントリックなことに対して、
「なんでやねん」「おかしいやろ」「異常か」「なにい」と、
まともな立場からのツッコミがない限りは、
どんなにエキセントリックなことをやっても、
エキセントリックだと認識されない。

エキセントリックとは、常識からの距離で測られるからである。


さて、今、まともな地盤であるべき常識が、
強固でなくなってきている。
こんな時代の、エキセントリックなあり方は、
作家としての立場の表明のようなものだ。

何がまともなことなのか。
そしてそれを離れた常識外のエキセントリックとは何か。
この両輪をしっかりさせないと、
作品を成立させることが難しくなってきている。

かつてはまともがしっかりあった。
今はしっかりない。

だから、まずまともを(作品内で)しっかりさせてから、
エキセントリックなことをする、
という二段階の完成度を要求されるようになったのだ。

ただエキセントリックなだけでは基地害扱いされる。
それが現代だ。


ということで、
分裂する真逆のベクトルを、あなたは描かなくてはならない。
強固な現実というまとも。
(このまともは、作品が始まって終わるまであるだけでいい)
エキセントリックというまとも破り。
分裂するけれど、
やらなくてはならないこと。

これに比べれば、「理由なき反抗」なんて児戯だ。
posted by おおおかとしひこ at 12:37| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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