どれだけ複雑なパズルを、
どれだけ見事に解いたか、
わからないからじゃないの?
数式が美しいとか、
解法がエレガントであるとか、
そういう風に理系の世界では言う。
一見複雑な事象がいかにシンプルな公式にはまっているかとか、
(複雑な事象のなかにシンプルさを発見することが理論である)
普通に解けばとても複雑な解法しかないところに、
一本補助線を引くだけで、
あっという間にパズルが解けるとか、
そういうことに価値を見いだすのが数学や工学である。
脚本は理系のものだとよく言われる。
複雑なパズルをうまくシンプルなストーリーラインに纏めることは、
文系よりも理系の方が得意かもしれない。
さて。
そのパズルがいかに見事に解かれているか、
理解できないバカがいるとしよう。
そのエレガントさに価値を見いだせないバカだ。
だとすると、ヒットしたとかしなかったとか、
自分の価値判断でないものを、
基準にすることになる。
そこでどういうシンプルさに見事に纏めたかとか、
いかにうまいどんでん返しをしたかとか、
それを味わうだけの能力がないバカが、
他人の評価基準で、
その成果を判断する。
大衆には理解されなかったが、
本質的には素晴らしい作品は、
こうやって発掘されないまま埋もれて行く。
数式や物理法則やパズルならば、
学会の論文にあるから、
後世の人間が再評価することも可能だ。
しかし映画や映像や脚本は、
アーカイブが残らない可能性、
すなわち絶版ということもあるわけだ。
成果主義は、一見、
上に認められなくても実際の成果を出したケースを拾える、
夢の仕組みに見える。
しかし実際のところは、
自分で仕組みを理解して、
それを自分の基準で判断する、
賢さを育てていない。
世の中バカばかりで、
少し今日は絶望している。
脚本論をここでどれだけ書いていても、
自分にとっては、バカと距離を開け続ける不幸を背負っていることになる。
バカ死なねえかな。
バカと付き合わずにスマッシュヒットはどう出せばいいのかな。
バカを騙すしかないのかな。
そういう人付き合いが苦手だから、
裏方に回ったんだけどなあ。
2017年09月13日
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