意味のことを考えだすと、次第にわからなくなってくる。
正確に意味しようとすればするほど、
言葉が多くなってくるからだ。
しかしどれだけ言葉を費やしても、
最終的に正確に意味を伝えることはできないと、
僕は考えている。
他人と他人が理解し合うということは、
その意味が共有できる範囲でしか、機能しないからである。
究極、ほんとうに理解しあえていなくても、
外からみたら話が通じてみえれば、
真実はどちらでもいいと考えている。
その後も理解しあえている前提で破綻がなければいい。
(チューリングテストの結論)
一見仲の良い夫婦、
人工知能の会話、
外人との会話。
そういうものは、
理解している共通集合はとてつもなく少なく、
実は大部分は違いの想像で補完し合っているだけだというのが、
真実なのではないだろうか。
それで互いを裏切らないことが保証されれば、
それで勝手に暮らしていけるというものだ。
それが他人同士が理解し合うということだと、僕は考えている。
ストーリーの意味だって、
そういうことでいいと考えている。
論文や数式ではない。
文章による、物質のないものの意味だ。
ということは、そもそも曖昧なのだ。
たとえば、
「ロッキー」のテーマはなにか。
「頑張れば認められる」でもいいし、
「アメリカンドリームはある」でもいいし、
「男の孤独を救うのは理解者だ」でもいいし、
「奇跡は起こる」でもいいし、
「男の証明は気持ちいい」でもいい。
僕は、このどれも正解の範疇に入っていると考える。
いつもはわざわざ併記しないから、
ひとつの映画に一意のテーマしかないような印象があると思うけど、
いちいち書くのが面倒なだけである。
勘弁していただきたい。
つまり、意味は点ではない。
ただひとつに限られる、すごく応用範囲の狭いものではなく、
ある一定の範囲に入っていればなんでもいいと思う。
互いに「ロッキー」を見た人が、
ロッキーを見たんだなこの人は、
と認識できればOKだと考えている。
その人の理解は100%じゃないし、
育ってきた環境や人生観によって、
大事なところや違うと思うところも違うからだ。
それでも同じものを見て、
大体同じところを見ているのなら、
そのストーリーは意味をなした、と考えることができると思う。
だから、「やっぱチートだな」って感想が出たら、
お前ロッキー見てないだろ、と反論できるというわけである。
大体同じ人々が、
大体同じストーリーを見て、
大体同じ結論を受け取ること。
それがストーリーの意味である。
正確な文章でなくていい。
その人の表現力によって、文章が全然違ってもいい。
大体同じところに帰着していればいいと、
僕は思う。
このストーリーのテーマはなんですか?
という問いに答えるときに、
大体合ってるかどうかしか、
採点基準はないと思う。
点数はつけられない。
〇(大体あってる)
△(大体あってるが、重大な漏れがある)
×(見てないだろおまえ)
くらいしか評価基準がないと思うんだよね。
多少の漏れがあっても、僕は構わないと考える。
一番重要なところが間違って伝わってなければ、
それは〇を与えていいと思うよ。
ストーリーの意味って、それくらいのことだ。
数学でいうような正確な一点はない。
全部範囲だ。量子力学的だ。
僕が法律や弁護士や保険が嫌いなのは、
その定義の範囲をいつまでもしつこく細かくしていくからだ。
大体合ってたらええやないか。
数学みたいに厳密に決まる世界じゃないくせに。
人と人だぞ。
2017年09月14日
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