2017年09月14日

意味は点ではない。範囲である

意味のことを考えだすと、次第にわからなくなってくる。
正確に意味しようとすればするほど、
言葉が多くなってくるからだ。


しかしどれだけ言葉を費やしても、
最終的に正確に意味を伝えることはできないと、
僕は考えている。

他人と他人が理解し合うということは、
その意味が共有できる範囲でしか、機能しないからである。

究極、ほんとうに理解しあえていなくても、
外からみたら話が通じてみえれば、
真実はどちらでもいいと考えている。
その後も理解しあえている前提で破綻がなければいい。
(チューリングテストの結論)
一見仲の良い夫婦、
人工知能の会話、
外人との会話。
そういうものは、
理解している共通集合はとてつもなく少なく、
実は大部分は違いの想像で補完し合っているだけだというのが、
真実なのではないだろうか。
それで互いを裏切らないことが保証されれば、
それで勝手に暮らしていけるというものだ。
それが他人同士が理解し合うということだと、僕は考えている。

ストーリーの意味だって、
そういうことでいいと考えている。
論文や数式ではない。
文章による、物質のないものの意味だ。
ということは、そもそも曖昧なのだ。


たとえば、
「ロッキー」のテーマはなにか。

「頑張れば認められる」でもいいし、
「アメリカンドリームはある」でもいいし、
「男の孤独を救うのは理解者だ」でもいいし、
「奇跡は起こる」でもいいし、
「男の証明は気持ちいい」でもいい。

僕は、このどれも正解の範疇に入っていると考える。
いつもはわざわざ併記しないから、
ひとつの映画に一意のテーマしかないような印象があると思うけど、
いちいち書くのが面倒なだけである。
勘弁していただきたい。

つまり、意味は点ではない。
ただひとつに限られる、すごく応用範囲の狭いものではなく、
ある一定の範囲に入っていればなんでもいいと思う。
互いに「ロッキー」を見た人が、
ロッキーを見たんだなこの人は、
と認識できればOKだと考えている。
その人の理解は100%じゃないし、
育ってきた環境や人生観によって、
大事なところや違うと思うところも違うからだ。
それでも同じものを見て、
大体同じところを見ているのなら、
そのストーリーは意味をなした、と考えることができると思う。

だから、「やっぱチートだな」って感想が出たら、
お前ロッキー見てないだろ、と反論できるというわけである。

大体同じ人々が、
大体同じストーリーを見て、
大体同じ結論を受け取ること。
それがストーリーの意味である。

正確な文章でなくていい。
その人の表現力によって、文章が全然違ってもいい。
大体同じところに帰着していればいいと、
僕は思う。

このストーリーのテーマはなんですか?
という問いに答えるときに、
大体合ってるかどうかしか、
採点基準はないと思う。
点数はつけられない。
〇(大体あってる)
△(大体あってるが、重大な漏れがある)
×(見てないだろおまえ)
くらいしか評価基準がないと思うんだよね。

多少の漏れがあっても、僕は構わないと考える。
一番重要なところが間違って伝わってなければ、
それは〇を与えていいと思うよ。



ストーリーの意味って、それくらいのことだ。
数学でいうような正確な一点はない。
全部範囲だ。量子力学的だ。

僕が法律や弁護士や保険が嫌いなのは、
その定義の範囲をいつまでもしつこく細かくしていくからだ。
大体合ってたらええやないか。
数学みたいに厳密に決まる世界じゃないくせに。
人と人だぞ。
posted by おおおかとしひこ at 14:46| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。