2017年09月18日

定常状態をつくるな

安定して生活して、心も平穏に保たれて。

それは我々の生活の理想で、
ある意味日常かもしれないけれど、
それは物語には、一秒たりともあるべきでない。

物語とは、楽園を追い出された者たちのことである。


主人公どころか、
登場人物全員が、
平穏で平和な日常を送らないことにしよう。

物語とは時間単位の変化である。
平穏な暮らしは定常状態であり、
微分すれば0だ。
つまり変化をしていない。
それは、ストーリーにおいては停止を意味する。
もっと言うと停滞だ。

あなたが自分のストーリーが停滞しているなあと感じるとき、
誰かが安定した日常に入っていないか、
確認するといい。

「大変な闘いが終わって、
ようやく日常に戻れたシーン」は、
危険から平和への変化を描いているので、
これには相当しない。
問題は、
「今日も平穏な暮らしを送り、
そして明日も平穏な暮らしを送り、
次にまた平穏な暮らしを送る」だ。

それは定常状態であり、物語ではない。
一方の激動に対して、変化しない対比としてそれを持ってくるならば、
まだその存在意義はある。

しかし、進行を旨とするストーリーにおいて、
定常状態は停滞にすぎない。
つまり、退屈である。


たとえば、
「大変な闘いが終わって、
ようやく日常に戻れたシーン」の次は、
「せっかく平穏な暮らしに戻れたと思ったのに、
まだそうではなかった、
話は終わってなかったのだ」が接続しなければならない。
進行こそ是である。

ワンシーンも、
「今日は平和で、なにもなかった」があってはならない。

それはストーリーではないからだ。


勿論、何もない平穏な暮らしは、
ストーリーの最初と最後には登場するかもだ。
それはストーリー(平穏でないこと)の逆だから。

しかし、全登場人物が、
平穏な暮らしをせずに、何かしらそうでないことが、
ストーリーの進行条件だといってもいい。
なぜなら、そうであれば「目的をもつ」からだ。

ストーリーを停滞させるのは、
目的が見えないことだ。
平穏な暮らしで安心したら、目的がなくなってしまう。
そこに安住するのは、目的のない、
ストーリーと真逆なことである。


相変わらずファイアパンチを追ってはいるが、
10年後のサンに、目的がないことにあきれてしまった。
だから一向にアグニと絡まない。
現状のサンには目的がない。
サンダーキックで奇跡を起こし、アグニに祈るという、
彼の中では平穏な暮らしをしている。
つまり定常状態だ。
これがストーリーになるには、
それが壊れて目的をもつときだけで、
それはなかなか訪れないので、
つまりはサンダーキックは出落ち状態の放置だ。
せっかくスタートダッシュを切るチャンスを失い、
結局は停滞する物語を、延々見させられる退屈に陥っている。


ストーリーが動くということはどういうことか。
誰も平穏な暮らしをしてないこと。
誰もが目的を持ち、そこに向かって動いていること。
その目的に近づいたり遠ざかったりして、
状況が動いていることを、
ストーリーが動いているという。
その目的への接近速度が早い遅いが、
展開の早い遅いである。


定常状態は物語の敵だ。
設定場面だけで終わるのは、出落ちの定常状態である。
posted by おおおかとしひこ at 16:21| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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