2017年09月19日

セリフをただ並べたって、焦点なんか出来やしない

思うセリフを順番に書いてみた。
なんかぱっとしない。
なぜだろう。

そこに焦点がないからだ。


焦点というのはとても難しい。
具体的文字に現れるものではないからだ。

しかし焦点がはっきりしているものは、
登場人物だけでなく、
観客たちがそこに巻き込まれて、
「それは一体どうなってしまうのか?」と、
我が事のように心配するものだ。
つまりそれは、ストーリーに夢中になっている瞬間だ。
(そして瞬間だけではなく、それは最後まで途切れずに続かなければならない。
それがストーリーである)

ただセリフを順番に並べても、
それだけでは焦点は発生しない。
なぜか。
「それを、どうしてもそうしたい」
「それを、どうしてもそうしなければならない」
「しかし、それをすぐに簡単にはできない」
「ほんとうにできるかどうかは確実ではないが、やらなければならない」
という、「緊張」がないからである。

緊張は、リスクと置き換えても構わない。

登場人物全員が同時に同程度のリスクや緊張を抱えてるとは限らない。
そんなこと稀だ。
誰がどの程度どれだけ緊張やリスクを抱えていて、
誰がそこそこどうでもいいと思っていて、
誰が一番そうしてくて、
誰が一番そうしてほしくなくて、
その空気の中で誰が一番先に口火を切り、
誰がその空気の中で反論したり、乗っかったり、同意したり、
同意しながらも自分の有利な方向へ話を曲げて行こうとしているか、
などが明快にわかり、
それが面白く、
しかもその先に興味を持てる時、
焦点が明確に発生しているといえる。

つまりそれは、
「この先を興味深く、緊張しながら見守れる」
という状態に、観客がなっているということである。

それが、たかが思いついたセリフを順番に書いて、出来上がるはずがない。

そこにいる全員が、相手が何を言い出すかわからない緊張状態での、
薄氷を踏むような言葉の応酬がないかぎり、
ぼんくらな台本しか書けていないのである。

セリフの積み重ねは、
生まれたままの子供が好きなように言葉を発していくのではない。
入念に計算された、
セリフに出ていない、
各人物の緊張を内に秘めたままの、
これを今いうしかない、という、ぎりぎりの賭けによって、
成立するのだ。

「これください」
「はい120円」
は、ただのセリフの積み重ねだ。

「最後の一個なんですよね?」
「そうだね。他を見てきたらもう売り切れているかもしれない」
「でもそうじゃないかもしれない」
「そう思うなら、そうするがいいさ」
「…わかりました」と握り締めたままの120円を叩きつける。
「240円。120円足りない」
「さっきは120円って言ったじゃないですか」
「今は240円だ」
「でも、でもこれしかないんです」
「左手に握ってるのはなにかね?」

こういう感じが、焦点を持っているというのである。

今とっさに書いたけど、
ほんとはもう少し、
どうしてもなぜそれが欲しいのかを事前に描き、
「ほんとうにそれが手に入るのだろうか」
と観客に自問自答させてから、このシーンに入るといいだろうね。


で。

それが買えるかどうかがストーリーにどれだけ貢献するのか、
観客がわかっていると、
それが120円で買えるかどうか、ハラハラして見守れる。
その120円を払うと3日間めしが食えない、という危険をたとえばそこに仕込めば、
さらにスリルは増すことだろう。


焦点は、つまりスリルなんだよね。


あなたのセリフの積み重ねに、
観客が感じるスリルはある?

ただ思うことを順番に書いてるから、
平板で面白くない、見ても見なくても同じ、
退屈なシーンを書いてしまうのだ。
posted by おおおかとしひこ at 19:19| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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