あらゆる要素が、関連しあって、
時間的に変化していくのをストーリーという。
逆から考えるとわかるかもしれない。
ストーリーの逆は、羅列だ。
9人のサイボーグを考える。
イワン。ジェット。フランソワ。
ハインリヒ。ジェロニモ。チャン。
ブリテン。ピュンマ。ジョー。
これだけだと羅列である。
ここに001、002、003、
004、005、006、
007、008、009と、
通しナンバーをつけると、
羅列は順序になる。
いうまでもなくこれはサイボーグ009のメンバーだ。
00ナンバーはつまり、
羅列に順序をつけるための方法論だ。
出席番号、仮面ライダー○号、
なんてのも同じ理屈だね。
あるいは、元素番号も同じだし、
国民番号制もだろう。
しかし注意したいのは、
この番号は任意に決めたものにすぎないということ。
つまり、入れ換えられる。
仮に、009を002としても006としても、
007を009としても001としても、
何ら不都合はない。
出席番号も同じで、
あいうえお順というのを便宜的に決めているだけで、
おえういあ順という新しい順番を決めて、
それに従って番号を新しくつけたとしても、
人間関係が変わるわけではない。
(席の近い人と仲良くなるのはあるよね。
僕は大岡だから、う、え、お、か、き辺りの人と、
最初に友達になったなあ)
元素番号はそうではない。
元素番号5と8を入れ換えることは出来ない。
それは元素番号は原始核の陽子と、電子の数だからだ。
逆に言うと、アルミニウムという名前はあだ名に過ぎず、
13個の陽子電子を持つ元素、
というだけでいいのだ。
順番が本質的で、名前はどうだっていい。
出席番号とは逆だ。
詳しく言うと、元素とは、
人間のようにバラバラで存在すると思われてたのだけど、
順番があるという発見がなされてきたのである。
しかし名前はそれより以前にバラバラにつけられていたので、
○番という言い方は、慣習上しないことになっている。
先に番号ありきなら、愛称レベルだったかもしれない。
仮面ライダー○号はどうだろう。
本郷猛と一文字隼人の番号を入れ換えられるだろうか。
本郷は1号で一文字は2号だ。
ストーリーの順番がある。
最初に改造人間になったのが1号で、
その反省を生かして2号が作られた。
しかし、一文字隼人が先に1号の実験台になり、
次に本郷猛が2号に改造されるストーリーでも、
たいして変わらないだろう。
つまり、仮面ライダー○号の順番も仮のもので、
入れ換えてもあまり問題がなさそうだ。
問題があるとしたら、
○号は、「思いついた順番」「発表された順番」ということだろうか。
そこに時系列が発生しているので、
厳密には入れ替え不可能のように思える。
でも、別にアマゾン(6)とストロンガー(7)とX(5)くらいは、
入れ替えられるだろうね。
つまり、元素番号をのぞいて、
羅列を順序立てたように思えた、
番号付けは、
所詮は便宜上のもので、
羅列と本質的には変わらない。
つまり、これはストーリーではない。
順番をつけて並べると、
なんでもストーリーになるような錯覚をしている人が、
初心者に多く見受けられる。
それは、あなたが思いついた順番を発表しているだけだ。
ストーリーというのは、
順番を逆にすると破綻するものである。
1の次に2があり、その次に3がある、必然性がある。
1の展開して変化したものが2であり、
2が自然に時が進むと3になるから、
3が2の次に来るのである。
論理、経時変化、自明の展開、類推、
などは、すべてこうでなければならない順番があり、
逆にしたり入れ換えができないものである。
(語る順番は入れ替えたほうが面白くなるときもある。
結末から始めるタイタニックなど。
あるいは多くのミステリーは、殺人事件が起こったあとの、
過去を探るストーリーだ。
殺人からストーリーをはじめる「刑事コロンボ」は、
斬新なアイデアだったが、よく考えてみれば、
時系列を追っているだけなのだ)
さて、
ようやく本題だ。
羅列するときは、要素の欠けが気になるものだ。
集合写真は代表的な羅列だが、
その日休んだ人は丸ワイプ扱いで、
美しい集合写真でなくなる。
つまり、羅列は欠けがあってはならない。
要素を全てチェックして、
欠けがあるのは欠品だ。
だから欠けチェックがメインになったりする。
横断的な羅列はとくにそうだろう。
ストーリーは、欠けがあってはならない、
ということはない。
むしろ欠けが必ず(100%ではないがほとんど)ある。
何故なら、時系列で関係することには、
すべての要素が必ず含まれるとは限らないからである。
たとえば、
100人のメンバーが全員出演するストーリーは、
全員が同じ時間の出番があるわけではない。
主人公に重点がおかれ、
メインキャラ数人程度にスポットがあたり、
それ以外は端役になる。
それは、100人が同時に等配分関わるストーリーがないからだ。
つまり、ストーリーにおいては、
メインキャラ以外は、欠けてもよい。
むしろ、ある少数の人間たちにスポットを当てることが、
ストーリーである。
スポットを当てるからにはその外は暗闇になるわけだ。
スポットの外は省略される。
つまり、ストーリーは、
現実にある羅列的なものを、省略し、
欠けを作ることによって成立する。
これは、私たちの理解の機構のような気がしている。
現実の世界は羅列的で、時系列なんてほとんどない。
カオスだ。
そこに、時系列や因果関係を見いだして、
ストーリー化することが、
私たちの「理解」という仕組みなのではないだろうか。
そのためには、要素を限定しなくてはならない。
ストーリーによる理解は、
現実の広大でランダムな羅列的世界の、
要素を減らして得られるものなのだ。
つまり、ストーリーは欠けが本質だ。
羅列は、欠けないことが本質だ。
つまり、羅列とストーリーは、真逆の性質をもつ。
「この要素が入らないかな」と、
リライトで心配することがよくある。
「この要素を入れてください」と、
CMでクライアントに言われることもある。
それは、羅列の視点でストーリーを見ている、
誤った考えだ。
欠けをチェックしたいのなら、
ポスターを作りなさい。
羅列をチェックして、全部を並べなさい。
それはコレクションにすぎない。
ストーリーは、その羅列的現実から、
何かを欠けさせることで、
スポットを当てるのだ。
考え方を変えなければならない。
欠けていることで、
今あるところが目立つのである。
もっとも、
ピンスポットを浴びるほどの面白いそれがないなら、
ピンスポットを当てずに羅列(群舞)で勝負だ。
そうすれば、
それはストーリーでなく羅列コレクションにしかならない。
2017年09月23日
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