2017年09月28日

ねじれの話、つづき

これがどうしてねじれになっているか、
うまく説明していなかったかもしれないので、補足。
詰まらない映画をつくったときの、反省会や浄化が進まないからである。

だめなプロデューサー:内容を監督や脚本家のせいにして、
自分は別の担保を探しに行くだけ

監督や脚本家:プロデューサーの言うことをきいて、
内心ダメだと思いながらも従ったせいで、内容が酷かったことを批判され、
なおかつあいつらはダメだったと烙印を押される

つまり、別々のものしか求めてなくて、
「いいものをつくる」螺旋が壊れている。
それがねじれだ。


なぜこれは面白くなかったのか。
どうして問題になってしまったのか。
どうすれば次は面白いものがつくれるのか。
何が一体面白いストーリーなのか。
次は何が面白いのか。

主役の人気のせいにするでもなく、
周囲のせいにするでもない、
まっとうなふつうの仕事のやり方が抜け落ちていると思う。

当然それには才能や技術がいる。
僕は、それをここである程度提供しているつもりだ。
それは業界をよくしたいからだ。
posted by おおおかとしひこ at 18:52| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。