2017年09月30日

何故初心者の物語は演説になってしまうのか

ストーリーは間接主張であり、直接主張ではない。
そもそもストーリーは主張でない。
ストーリーが間接主張になるのは、
「それがここにある意味」が、主張のように見えるからだ。

そんなことを分かっていても、
どうしてか、
初心者の書くストーリーは、メアリースーを避けたとしても、
直接主張になりがちである。

なぜだろうか。


答えを先に言っておくと、
「ワンサイドの主張しか考えていないから」だ。



人はいつ雄弁になるのだろう。

ずっと一人で考えてきたこと、
ずっと誰にも言わずに思ってきたこと、
なにか貯まっていること、
それらが一気に溢れてくるときではないだろうか。

たとえば僕がここに書いているのは、
ずっと僕が一人で考えてきたことで、
だから僕は雄弁になる。

そこに無限の試行錯誤があり、
これが正解だろうということに、
すでに到達しているからだ。
だから失敗談も僕は包み隠さない。
こっちは崖とか、落とし穴とかを、
ダメだった人の経験談として、
なるべく同じ失敗を擬似的にさせるくらいには、
語りたいと思っている。

別のことでいうと、
片想いが長かった人が、
その人に告白するときは、雄弁になる。
一人で考えてきたことが沢山あるからだ。

さらに別のことでいうと、
子育てで一人で悩んできた嫁は、
旦那に不満をぶちまけるときに雄弁になる。

一人でぐるぐる考えたことは、
人を雄弁にする、と僕は思う。

雄弁にするだけで、
その主張の正当性や妥当性については不問とする。
間違ったことを雄弁に語る人もたくさんいる。

女の子はドン引きしていても、
ありったけの思いを全部言うまで、
告白というのは終わらないものだ。

今は雄弁かどうかだけを考えている。

つまり、雄弁とは、「全部だすまで終わらないこと」かも知れない。


さて、創作だ。

一人でずっと考えてきたことがある。
それを雄弁に書く。
それがストーリーを書くということだよね。

そして初心者ほど、
「自分をぶちまけたい」という欲望を叶えることに必死なのだ。
ぶちまけ慣れしてないからだ。

ところで、
ストーリーとはコンフリクトであった。

異なる立場、異なる考え方、異なる経験、異なる背景、
異なる性格、異なる人種たちが、
あるひとつのことについて、
違うことを考えたり感じたり行動した結果、
事態が動いていくことを描くのである。
だから摩擦や軋轢が起こり、
ひとつの決断や結果について、
誰もが満足しないことになる。
だから不満な人間が次の行動をおこし、
軋轢や摩擦がどんどん大きくなっていくのである。
これがコンフリクトによるストーリーである。

つまり。
主人公が一人でずっと考えてきたことがあるとして、
相手(一人でも二人でも三人でも)にも、
一人でずっと考えてきたことがあるはずだ。
だから、その考えが異なり、軋轢が生まれるのだ。
主人公一人がぶちまけたとしたって、
相手も何人も、同じ分量ぶちまける。これがストーリーだ。

初心者はせいぜい、主人公一人の、
「ずっと一人で考えてきたこと」しか扱えず、
もう一人、もう二人、もう三人の、
「それぞれずっと一人で考えてきたこと」を扱うことが出来ない。

そりゃそうだ。
「自分一人で考えてきたこと」は主観ではひとつしかないからね。
その主観が沢山いる世界で、
主観同士がバッティングすることが、
コンフリクトでありストーリーであるのに、
初心者は、自分一人の主観しか考えることが出来ないのである。


だから、
「主人公がワンサイドのまま自分の主張を雄弁に語り、
相手はそれに納得して主人公の思うままのビジョンが実現しておしまい」
という、一方的なストーリーしか書けないのだ。

主人公が雄弁に語ったら、
別の人が、
「私はそうは思わない。何故なら私一人でずっと考えてきたことはこうだからだ」
と反発し、その差が埋まるか決裂して殺しあうまでを描くのが、
コンフリクトによるストーリーである。
もちろんこれはコンフリクトの相手が一人という、
ものすごく簡単なストーリーであり、
実践ではもっと数人(メイン登場人物。映画では5、6人、
と僕は見積もっている)が、同様に相容れない、
というのがストーリーである。

つまり。
初心者は、主人公しか人間でなく、
それ以外はロボットや駒としてしか描けない。

だから、「主人公が雄弁に主張したら、
周囲の人間(これはロボットや駒)が、
反論もせずに全部を認めてくれてハッピーエンド」
しか書けないのだ。

先日批判したメアリースー、牛乳石鹸はそうであった。
子供も妻も、夫の言い分を聞いて、
なぜか、ご都合よく、許してくれるのであった。

メアリースーは、
「私だけがいい子いい子されたい」という幼児的全能感のことだが、
それは、
「私だけが人間であり、
他の人は人間でない」という世界観なのだ。
だから他の人は、ロボットのように、駒のように、
主人公の都合のいいように、動いてくれるのだ。(ご都合主義)

相手は人間である。
異なる考え方を、ずっと一人で考えてきていて、
それを雄弁に語ることもできる。
主人公も人間で、同様に異なる考え方を、雄弁に語ることが出来る。

つまりは、
ストーリーとは議論だ。

議論を書けないワンサイドが、
初心者の書く、ストーリーになっていないストーリーである。


勿論、ここでいう議論とはあくまで象徴であり、
「異なる背景や考え方を持つ複数の人間が、
妥協点を探したり、利害が一致したり、
利害が合わないので決裂したり、
誰もが納得する新しい解決(アウフヘーベン)に、
たどり着くこと」を意味しているにすぎず、
手段は会議室のテーブルで話すことに限定しない。

あらゆる手段をつかった議論、
殺し合いや非人間的手段も含めた、
異なる考え方を持つもの同士の軋轢や摩擦やその行く末。
それこそがストーリーである。


結論で言うと、
初心者は複眼で見れていない。
自分一人でいっぱいいっぱいだ。
だから言い訳ばかりしている。

複数の人間の雄弁な言い分を、大岡裁きのように捌けるか。
それがストーリーだ。
(ここで大岡を持ってくるとは、自分でも思わなかったよ)
posted by おおおかとしひこ at 13:33| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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