2017年10月04日

改めて脚本とは何かを確認しよう【風魔論含む】

ドラマ風魔十周年記念につき、
いつもの脚本論はお休み気味です。

でもひとつだけ言いたい。
物語とはひとつの奇跡だ。
おれたちは、その奇跡を作る商売なんだ。


ドラマでも映画でも、ウェブムービーでもいい。
物語とはひとつの奇跡だ。

それも、降ってわいたご都合じゃなくって
(初心者がやりがち)、
人間たちが自力で切り開いたことが、
結果的に奇跡を起こすことなんだ。

世の中はほうっておいたら、
ぐずぐずの流れに流されてしまう。
安易なことや、愚鈍なことや、悪意に。
つまりカオスに呑み込まれて砂粒になってゆく。

それに流されずに、
自分の意志を貫き、
ある思いに駆り立てられて、
カオスの抵抗に流されずに、
なんらかの結果を出すことが、
カオスに対する唯一の対抗手段なんだ。

それが大成功ならハッピーだし、
それが失敗に終わったとしても、
ナイストライとして明日の糧になれば、
それはそれで奇跡だ。

だから物語とは、奇跡が起こることではなくて、
主人公が奇跡を起こすことを描くんだ。

ようし奇跡を起こしてやろう、なんて主人公は思っていない。
ある純粋な思いを実現するために、
下らないとかやめとけとか無理だという反対や揶揄を浴びながら、
具体的な抵抗にあいながら、
あるいは悪意にさらされて妨害されながら、
あるいは偶然のアクシデントに翻弄されたり、
タイミングの悪さに停滞したり、
前任者の失敗を踏まえて反省したり、
地味な調べものや努力を人知れずしたりして、
大一番や山場を何度も乗り越えて、
自分の中の恐怖や無駄だと言うネガティブを乗り越えて、
最後になんらかの結果を出すことを、
端から見れば、
奇跡としか言いようがない、
というだけのことだ。

初心者はすぐに自分を主人公に重ねてしまうから、
自分が起こせる矮小な奇跡までしか描けない。
主人公は自分よりも、全然パワフルでスキルがある、
全くの他人であるところからスタートしないと、
奇跡ほどの行いは描けない。
でもスーパーマンである必要はない。
欠点のない人間はいない。
何かのパワフルな行動力なスキルがあったって、
性格は凸凹している、ごく普通の人間だ。
なんだったら、誇張するために欠点だらけの内面かもしれない。

それでもそのへんてこな主人公は、
その物語の中で、
ひとつの大きな大冒険を経験する。
その大冒険こそが、皆が待ち望むワクワクする物語だ。

そんなの書けるわけない?
いやいや、妄想の翼をたくましく広げれば、
そんなの沢山あるだろ?
詰まらない教室の片隅で、
ぼーっと空を眺めていたときに、
夢想していただろ?
それを叶えればいいだけだ。

あなたがワクワクする大冒険は、
きっとみんなもワクワクする。
分かりにくい大冒険なら、
それが分かりやすい形になるまで、
噛み砕いたり変形したり、
別のものに置き換えてみたりするといい。
あなたの中のローカルルールじゃなくて、
世の中の人が分かるグローバルルールの中で世界をつくるといい。
だから大阪の話が標準的なのではなく、
東京の話が標準的になるだけだ。
仮に舞台がローカルであったとしても、
そこにローカルルールでしか理解できないことがあっても、
グローバルルールで理解できるように誘導してあげれば、
そこで行われる大冒険に、
みんなを参加させてあげることができる。

たとえば古い映画だが、
「ハスラー」は、冒頭10分で、ビリヤードとは何かをグローバルルールに落としこむ。
それはナインボールのルール説明をするのではなく、
「負けてるふりをして賞金を釣り上げ、
最高額になったところで本気を出して勝つ、
死んだふりをするだましあいである」という、
他の世界でも通じるルールだ。
作者の中ではビリヤードの妄想だとしても、
観客にはだましあいのストーリーとして提示されているのだ。


そういう風に物語をつくれば、
どんなローカルな話だって、
観客を参加させることができる。

イケメン忍者が抗争を繰り広げる世界の妄想ではなく、
「姫に恋した半人前が、仕事を自覚しながらも、
新しい形で生き方を決める」
という、ごくごく普通の形のストーリーで、
ドラマ「風魔の小次郎」は、
グローバルルールで理解できるように提示された。

そういう風にすればいいだけだ。


主人公はあなたではない。
あなたと別のスキルや性格や、
別の世界に生きている、
あなたと全く別の人物だ。

そして全く別の世界である方が妄想が捗る。
妄想とは現実逃避だからである。
あなたは、よくある現実逃避ではなく、
全く新しい現実逃避を発明しなければならない。

それでもなお、
主人公はあなただ。
さっき別人っていったじゃん。
確かに、外見も立場もスキルも人間関係も、
全くの別人だ。

それでも、一番大事なもの、
心に持っている、純粋な思いだけは、
あなたと同じだ。

だからあなたは、物語を書ける。


ドラマの小次郎は、
車田正美の創作したキャラクターとは、
微妙に異なる。
もう一人の主人公、壬生は全然違う。
(原作壬生ファンの皆さんすいません)
それは、どちらも、
僕の思いが入っているからなんだよね。

環境に抵抗しながらも、
己の役目を見いだして、
新しい考えに至り、実行して行くこと。

そこが僕の思いで、
それは原作の小次郎や壬生にはない部分だ。

それが嫌な人は、原作至上主義でドラマ版を否定するだろう。
でもこの事自体は、
とてもグローバルな話だと思ったから、
僕はドラマ版風魔を、そういう話として再構成した。

風魔というローカルルールに、
グローバルな見方をつくった。

「原作とは別物だけど、ドラマとしてよい」
という批評は、それを的確に評していると、
僕は感じている。



物語は奇跡だ。
それを起こすのは、
別の世界の妄想のなかでもがく、
別人だけどあなたの思いを持った人物である。
つまり、あなたの思いが奇跡を起こす。

だから物語は美しく、価値がある。
posted by おおおかとしひこ at 09:49| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。