自分と似たサイドは書けても、
逆サイドはなかなか書けないよね。
表面上のリアクションや普段の仕草は書ける。
もう少し書ける人なら、
中で何を考えてるのか、
書くことができるかも知れない。
何を大事にしていて、
どんな嘘をついて、
何を捨てても平気で、
何だけは守りたいか、
書くことができるかも知れない。
まずはそこまで内面を理解することだ。
理系文系論争とか男女論争とか、
ネットではよく見るような、
互いのことを分かってない(無知な)論争を、
書けるようになろう。
何故なら、作者だけが双方の内面を理解していて、
作中の人物は、リアルと同じように、
互いの内面を理解していないからだ。
まずそのことを書けるだろうか。
陽キャのことをほんとうには理解していない陰キャ、
陰キャのことをほんとうには理解していない陽キャ、
彼らの思い込みによる、
認識の食い違いのケンカ。
それは、作者が互いのことをよく知らないと書けないだろうね。
僕は陰キャだから、陽キャが苦手だ。
でも陽キャが悩まなかったり、
孤独を感じなかったり、
ストレスがたまらなかったり、
するわけはないよ。
陽キャも、陰キャが苦手だろう。
でも陰キャは、楽しいことが嫌いなわけではないし、
本当は我を忘れて騒いでみたいし、
おしゃれしてみたいんだよ。
そんな外面と内面のギャップを、
うまく書き分けられたら、
なかなかの腕前だ。
さらに上級者になると、
それらのキャラクターが、
そうじゃなくなる瞬間を書くことが出来るようになる。
陽キャだとはとても思えない発言、発想、行動、判断、
陰キャだとはとても思えない同。
それらは、ある文脈に出会ったときに現れる。
それは特別な文脈で、
普段のキャラクターが崩れてしまうぐらいに、
動揺していたり、理性が飛んでいたり、
そんなこと考えられなくなったり、
普段の自分じゃない自分が出てくる瞬間なんだ。
たとえば子供の頃に憧れた漫画家にあえるとなったら、
どんなおじさんおばさんも子供に戻ってしまうよね。
陽キャも陰キャも関係なくなるよね。
そんな感じ。
それって、そのキャラクターが、
陽キャ陰キャとは別に持っている、
大切な何かに触れるときにそうなると思う。
陽キャ陰キャは、あくまで外見の印象だ。
陽キャだって冷淡なところもあるし、
陰キャだって燃えるような情熱を持っている人もいる。
その大事な何かに触れるときに、
人は変わる。
その瞬間こそ、映画が扱う、人間のドラマの瞬間だ。
それを、事件から解決のストーリーラインの中や、
コンフリクトの中で、
描くのである。
2017年10月05日
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