世界はやさしい。それをベースにしたものを喜劇という。
世界はきびしい。それをベースにしたものを悲劇という。
性悪説と性善説、どちらが正しいかはわからない。
正義が正しいか、悪が正しいかはわからない。
楽観主義と悲観主義、どちらが正しいかはわからない。
悲劇と喜劇、どちらが正しいかはわからない。
しかし、作品の中で、それらは首尾一貫していなければならない。
それはあなたの主義や哲学と関係なくても構わない。
悲劇と喜劇を交代交代で書いてもいいし、
ハッピーエンドとバッドエンドを一個おきに書いてもいいし、
どちらかを片寄って書き続けてもいい。
そして、多くはその世界観が作者の人生観と一致すると誤解されるが、
ぶっちゃけ一致してないものも書けるべきだ。
なぜなら、私たちは他人を書くからである。
自分自身がどう思おうと、
他人の人生観や世界観と、なにも一致しなくてはいいではないか。
逆に、そこが分離できないから、
主人公と自分を同一視してしまい、
誤った書き方(メアリースー)をしてしまうのだ。
勿論、自分の信じる世界観を書く方が、
力強い作品になるし、
書いてて楽しいかもしれない。
しかしそれは同時に、他人を書けないという弱点になりかねない。
ストーリーというのは、異なる考え方のコンフリクトである。
悲劇の主人公と、喜劇の主人公のケンカのようなものだ。
性善説の人間と性悪説の人間との、争いだ。
楽観と悲観の戦いだ。
そういう風に考えないと、他人同士の考え方の相違は描けない。
どうしてそんなに考え方が違うんだろう。
生まれもっての性格か。
いや、そこにいたる経験で、
そうなってきたはずだ。
つまり、他人の人生観を考えることは、
他人の生い立ちを考えて想像することだ。
あなたの人生観と真逆の世界を描いてみよう。
やさしい世界と、厳しい世界の対立を描いてみよう。
あなたの人生観側が敗北して、そうでない世界が勝利する物語を書いてみよう。
それは習作でよい。
あなたの書く世界が、その後豊かになるだろう。
2017年10月07日
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