風魔一話を改めてみると、
こういうギャップがあることがわかる。
(ていうか、10年たってようやく客観的に見れた)
ギャップは魅力の基本だ。
「面白おかしくて、
無鉄砲で無計画な、台風の目のような人が、
いざというとき真面目になる」
というのが、初期小次郎の魅力だ。
これはドラマ版でとてもうまく再現されていた。
(しかもほとんどオリジナルコントにおいてだ。
蘭子と小次郎のコント、サッカーの暴走と石つぶて合戦からの、
壬生戦への流れ)
つまりギャップである。
騒がしくてへんなやつだけど、やるときはやる、という魅力だ。
ギャップは脚本の基本だ。
4ビートの一本調子は飽きる。
8ビートになったり、横乗りになったり、
ワルツになったりするとよい。
それらが対比的であったり、意味のある関係になることが重要で、
ただのランダムでは面白くない。
ただのごった煮ではなく、
整理された意味のあるストーリーが、
脚本というものだ。
ちなみにドラマ二話以降では、
楽しさと切なさのギャップとか、
絆と孤立のギャップとか、
恋の拒否と恋を受け入れることのギャップとか、
野心と無心のギャップとか、
世間の冷たさと暖かさのギャップとか、
そういうものがたくさん現れて、
それらはすべて「新しい形の忍びになること」
というメインテーマにきれいにまとめあげられてゆく。
ただギャップをランダムに並べては、
ただの雑貨屋で、
それを貫くテーマ性が必要だということ。
ギャップをつくってからテーマをひねり出すのか。
それともテーマをつくってギャップをぶら下げるのか。
僕はどっちから作ってもいいと思う。
ドラマ版では小次郎のキャラがすでにあったから、
そのギャップの先にあるテーマとは何だろうと考えたわけだ。
勿論原作版では、テーマ性が決まる前に作品のパワーが落ちて、
うやむやになったまま打ちきりという悲劇に終わった。
それを再構築したいというのが僕の動機のひとつでもあったわけだけど。
同じ調子は飽きる。
読めるからである。
それが別のギャップを持ち始めたとき、
おっと思う。
それが意味のあることだと分かってくると、
この先の結論を知りたくなる。
そういう風に作るといいだろう。
風魔一話は、見事にその冒頭の役割を果たせていた。
ギャップをきれいに仕込もう。
その落差がテーマに導かれるように。
(ちなみに、風魔一話の面白さとかっこよさのギャップは、
おちゃらけている小次郎は表面のことにすぎず、
芯は忍びとは何か考えている真面目な子だということが、
のちのち分かってくる。これがメインテーマへ繋がる)
2017年10月07日
この記事へのコメント
コメントを書く