これらは渾然一体だけれど、
分離して考えることもできる。
たとえば、
「新しい寮に入って、
先輩たちからいじめられるのだが、
頭のよい機転で切り抜け、
一目おかれるようになる」
という、ごく平凡なストーリーであったとしても、
その機転のアイデア次第では、
新しい場面になる可能性がある。
その機転の面白さがそのキャラクターの第一印象になり、
そのことでそのキャラクターのことがよくわかり、
かつ、
その第一印象のエピソードがあとで伏線として使われていると、
完璧だ。
ぱっと例を思い浮かばないけど、
インド映画「きっと、うまくいく」の冒頭はそんなだった記憶。
いやそこまで完璧ではなかったか。
(いずれにせよこの映画は近年まれに見る素晴らしさなので、
是非とも見ておくべきだ)
転校生がやってくるときは、格好のこのパターンだよね。
「運命の二人が出会う」なんて平凡だけどみんなが大好きなストーリーも、
その出会い方にオリジナリティーあふれるアイデアがあれば、
それは強烈な印象になり、アイデンティティーになる。
僕が好きなのはあしたのジョーの、
ジョーと力石の出会いだ。
豚小屋を壊して逃げ惑う豚に乗りながら少年院脱走を企てた野性児ジョーに対して、
豚津波をゆらりと交わしながらやってきた力石が、
強烈なパンチで気絶させる場面だ。
これは最高の出会いのひとつだと思う。
野性児対技術という大きな枠組みも提示されている。
こんな古典を出すまでもなく、
物語は運命の出会いに溢れている。
男女の出会いはもう少しリアリティーがあるやつが多いよね。
でもそこに運命性(偶然のいたずら)があると、
なにかのトキメキが生まれたりする。
偶然とは大きくいうとラッキースケベと同じジャンルであり、
「評価されていない私でも、
偶然のチャンスさえあればこうなれるかもしれない」
という夢を人に見させることができる。
大きくいうとのび太症候群、メアリースーであるが、
それを感じさせないアイデアがあれば、
それはオリジナリティーある場面になるだろう。
たとえば大岡版「夜は短し歩けよ乙女」(作品置き場参照)では、
「主人公は先輩に貸した本を返すと呼び出され、
『赤い帝都』を返却される。
帰るときにかわいい女の子とぶつかりそうになり、
右左右とよけるが、全部その子とかぶってしまう。
顔を見合わせたら一目惚れで恋に落ちてしまう。
彼女は同じ本を持っていたと話しかけてくれる。
その時桜の花びらがヒラヒラと落ち、
本のタイトルを一文字隠す。
それが『あかいいと』になったことから、
主人公はこれは『運命の出会い』を確信する」
というギャグなのだが本人は真剣きわまりない、
というずれっぷりを示す場面がある。
モテナイ男に訪れた奇跡の瞬間だ。
ここまで印象的にしておけば、
これを伏線に使うこともできるというわけだ。
あるいは、
「告白していい感じになる」
という平凡だけどみんなが大好きなストーリーも、
アイデア一発でオリジナリティー溢れる名場面になる。
ドラマ風魔第10話では、
「私の好きなところ10個いって?」
という無邪気なバカップル的なアイデアが、
場面の決め手になる。
勿論これに結実するために、冒頭から伏線を引いてあるし、
今までの全部がそこに結実するように仕掛けてある。
そういう技術さえあれば、
たったひとつのアイデアで、
プロットだけでは平凡なストーリーを、
綺羅星のような名場面にすることが可能だ。
「○○が△△を××する」
というプロット上では平凡な一行だとしても、
実際の執筆では化けるのだ。
逆に言うと、プロット自体にアイデアがない場合、
アイデアを出すことで、アイデア次第によっては名場面になることもできる。
逆に、プロット自体にアイデアがあることもある。
「犯人は主人公」というのは、
ミステリーにおいては今更なアイデアかも知れないが、
発明された瞬間は驚異的なオリジナリティーがあったと思う。
これはプロットそのもののアイデアだ。
「メメント」という怪作は、
「10分しか記憶が持たない」主人公を描くのに、
10分のブロックずつ時間を遡らせていくという、
とても斬新な構造を作った。
あるいはループ落ち、あるいはタイムパラドックス。
こういうものは、プロット自体にアイデアがある。
「ふつうこうだから、それ以外の新しいこれは面白い」
ということに基づけばそうなるだろう。
そもそもどんでん返しも、そうやって作られたもののひとつだろう。
(どんでん返しがいつ頃どうやって発生したか、
歴史的に研究してる人はいるのかねえ。
僕は小学生の頃テレビで見た「猿の惑星」はすごい衝撃を受けたなあ)
いまやどんでん返しすら普通になってきたから、
どんでん返しと思わせて何もしない、が一瞬新しいと思われたが、
結局、見事などんでん返し以外は糞なので、
ちゃんとやるならやる、やらないならやらない、あたりに落ち着いている気がする。
で、
プロット自体にアイデアがあるときは、
ストーリーの場面自体はふつうであることが多い。
平凡なプロットをアイデアで新しく見せるのと、
ちょうど逆の関係になっている。
それは、人の考える限界のような気もするし、
両方にアイデアがあると複雑で分かりにくくなるという判断もあるかも知れない。
でも本当は、両方にアイデアがあり、噛み合うのがベストだと思う。
たとえば「運命じゃない人」はとても斬新なプロットに関するアイデアがあったが、
それを生かすために前半まるまる平凡なストーリーで、
飽きてしまうのが弱点だ。
これは全体のアイデアの分量調整的にはいいのかも知れないが、
このアイデアを生かす、ベストなストーリーはこれだったのかと、
僕は思ってしまう。
「社会人になると文化祭とかない(だから出会いはない)」
という台詞が唯一心に刺さったくらいかな。
平凡なプロットは、素晴らしいアイデアで名場面になることがある。
プロット自体に素晴らしいアイデアが訪れることもある。
アイデアは常に出していこう。
新しさは、アイデアの別名だ。
勿論、よいアイデアと悪いアイデアがある。
2017年10月14日
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