芝居の基本は切り返しである。
Aが何かする(言う)と、
それにBが何かする(言う)。
リアクションだ。
それに対してAが何かして(言って)、
それに対してBが何かして(言って)…
の繰り返しがミニマムな芝居の基本である。
で、
Aの発言や行為、
Bの発言や行為を考えることはできても、
Aが何かしていたり発言しているとき、
Bは何をしているか、というのが今回の本題だ。
つまり、作者はAにフォーカスしたり、
Bにフォーカスしているけれど、
現実はAもBも固有の時間軸が流れていて、
それぞれ独自に都合や目的があり、
何かをするつもりでそこにいる、
ということだ。
Aから見たら、
自分の行為のリアクションであるBの何かを見ている(聞いている)間、
その次のことをしようとして、
何かしていることがあるはずだ。
それを、考えているかということ。
「犬小屋を作っているAにBが話しかける」
という場面を考えよう。
Aがいつ手を止めてBの話を聞くのか、
話を聞きながら作業の続きをするのか、
いつ作業を止めてBの話に本格的に巻き込まれるのか、
いつ作業に戻るのか、
それは、
「Aの中の気持ちの流れ」に沿うということである。
「犬小屋をつくる」以外に、別の文脈をつくってもよい。
浮気相手に電話しようとしている、
小便に行こうとしている、
計画を人にしゃべりたくてしょうがない状態で、話し相手を探している、
怒りをぶつける相手を探している、
約束の時間に遅れている、
などなど、
なんだってよい。
その状態で、Bに話しかけられたとき、
状態によってリアクションが変わるだろうということ。
つまり、会話の流れもまるで違うものに変わってしまうということ。
下手な役者は棒立ちである、
と書いたが、
上手な役者はここでの「何をしているか」をつくることができる。
同じ場面の同じセリフを言うのでも、
お腹が空いていてイライラしている時と、
暇で話し相手がほしい時と、
今すぐジャンプを買いに行きたい時では、
全く違うテンションや受け答えになるだろう。
シーンの目的すら逸脱して、多少のリアルな脱線すら作ることもできるだろう。
優れた役者なら、その「何をしているのか」を勝手に創作して、
演じ分けることもできる。
演じるとは、つまり、「Aという感情をAのように表現する」ということではない。
そのAという感情を、
どうやったら切実に表現できるかという、
「何をしているのか」を創作するということなのだ。
それは、役者が台本を半ば書くと言う行為だ。
もちろん、役者がわざわざそんなことしなくても、
明らかにそれが用意されていれば、問題ない。
あなたの脚本に、そこまで考慮して書いてあればね。
ただ「AとBが棒立ちで話す」だけの台本を書いてやしないか。
Aがしゃべるとき、Bは何をしている?
Bがしゃべるとき、Aは何をしている?
もちろん最初からそこまで考えて書けるのは、
よほどのベテランだけだ。
しかし第一稿にそれがないのなら、
二稿以降で足していくといい。
自然な芝居になってゆくだろう。
台本とは、つまるところ文脈を与えるものだ。
それはつまり、脚本家の仕事だ。
もちろん、二人芝居なんて単なるミニマムだ。
そこにCやDやEがいたら、人の数だけ抱えた文脈がある。
2017年10月18日
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