2017年10月18日

切り返した時、何をしている?

芝居の基本は切り返しである。
Aが何かする(言う)と、
それにBが何かする(言う)。
リアクションだ。


それに対してAが何かして(言って)、
それに対してBが何かして(言って)…
の繰り返しがミニマムな芝居の基本である。

で、
Aの発言や行為、
Bの発言や行為を考えることはできても、
Aが何かしていたり発言しているとき、
Bは何をしているか、というのが今回の本題だ。

つまり、作者はAにフォーカスしたり、
Bにフォーカスしているけれど、
現実はAもBも固有の時間軸が流れていて、
それぞれ独自に都合や目的があり、
何かをするつもりでそこにいる、
ということだ。
Aから見たら、
自分の行為のリアクションであるBの何かを見ている(聞いている)間、
その次のことをしようとして、
何かしていることがあるはずだ。

それを、考えているかということ。


「犬小屋を作っているAにBが話しかける」
という場面を考えよう。

Aがいつ手を止めてBの話を聞くのか、
話を聞きながら作業の続きをするのか、
いつ作業を止めてBの話に本格的に巻き込まれるのか、
いつ作業に戻るのか、
それは、
「Aの中の気持ちの流れ」に沿うということである。

「犬小屋をつくる」以外に、別の文脈をつくってもよい。
浮気相手に電話しようとしている、
小便に行こうとしている、
計画を人にしゃべりたくてしょうがない状態で、話し相手を探している、
怒りをぶつける相手を探している、
約束の時間に遅れている、
などなど、
なんだってよい。

その状態で、Bに話しかけられたとき、
状態によってリアクションが変わるだろうということ。
つまり、会話の流れもまるで違うものに変わってしまうということ。

下手な役者は棒立ちである、
と書いたが、
上手な役者はここでの「何をしているか」をつくることができる。

同じ場面の同じセリフを言うのでも、
お腹が空いていてイライラしている時と、
暇で話し相手がほしい時と、
今すぐジャンプを買いに行きたい時では、
全く違うテンションや受け答えになるだろう。
シーンの目的すら逸脱して、多少のリアルな脱線すら作ることもできるだろう。

優れた役者なら、その「何をしているのか」を勝手に創作して、
演じ分けることもできる。

演じるとは、つまり、「Aという感情をAのように表現する」ということではない。
そのAという感情を、
どうやったら切実に表現できるかという、
「何をしているのか」を創作するということなのだ。

それは、役者が台本を半ば書くと言う行為だ。

もちろん、役者がわざわざそんなことしなくても、
明らかにそれが用意されていれば、問題ない。

あなたの脚本に、そこまで考慮して書いてあればね。

ただ「AとBが棒立ちで話す」だけの台本を書いてやしないか。
Aがしゃべるとき、Bは何をしている?
Bがしゃべるとき、Aは何をしている?

もちろん最初からそこまで考えて書けるのは、
よほどのベテランだけだ。

しかし第一稿にそれがないのなら、
二稿以降で足していくといい。

自然な芝居になってゆくだろう。

台本とは、つまるところ文脈を与えるものだ。
それはつまり、脚本家の仕事だ。


もちろん、二人芝居なんて単なるミニマムだ。
そこにCやDやEがいたら、人の数だけ抱えた文脈がある。
posted by おおおかとしひこ at 20:37| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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