2017年10月21日

発散思考と収束思考と、作品作りの段取り

思考には二種類ある。
発散思考と収束思考だ。

これと、作品作りの段取りのタイミングがあっていないとき、
不幸が起こるのだ。


発散思考は、あることについて、
あれもある、これもある、と思考を広げていくことである。

連想、逆、スプレッド、パターン違い、
全く別の角度やフレームからの思考を考えつく、
などは発散思考だ。

収束思考はその逆で、
広げられた風呂敷を、畳んでいく思考だ。

捨てること、複数のものを結合して凝縮すること、
アウフヘーベン、
全部を含むシンプルな解を思いつく、
コロンブスの卵的発想、
首尾一貫したコンセプトにたどり着く、
テーマやログラインを書く、
などは収束思考だ。


ストーリーづくりは、
着想という一点のビッグバンからはじまる。

こういうことでこういうのが面白いんじゃないか、
というアイデアの形をしているだろう。

そこで発散思考で色々作っていく。
新たな閃きを得て、どんどん広がったり上書き改変することもあるだろう。
楽しい。
自我が広がる楽しみである。

しかしそれは、どこかに帰着して終わらなければストーリーとは言えない。
だから、収束思考でひとつに収斂してゆく。

落ちを決め、一貫したテーマやコンセプトで背骨を正し、
ブレのないエンターテイメントかつ芸術にしてゆき、
大衆の前にどうプレゼンして世の中に影響を及ぼすかを計画する。


さて本題。

アイデア出し、
プロット、
執筆、
推敲、
と仮に4段階あるとしよう。

その時、いつ発散思考で、いつ収束思考か?
ということ。

素人はこう考えるのではないか?

アイデア出し:発散思考
プロット:発散思考
執筆:発散思考
推敲:収束思考

これが、間違いの元だ。
実はこうだ。

アイデア出し:発散思考と収束思考
プロット:収束思考
執筆:収束思考
推敲:収束思考

ビッグバンから全貌の整理は、
実はアイデア出しの段階で終了なのだ。

プロットはそれを整理する段階に過ぎない。
執筆はそれを細かく遂行するに過ぎない。
推敲は、そのパフォーマンスが正しかったか、
鏡を見ながら修正していく作業に過ぎないのだ。


そうでないと、書いている途中に発散思考がおき、
脱線してしまうからである。

よく経験済みの、
脱線からのダッチロールをコントロール出来ないからの、
空中分解が待っている。


つまり、全ての可能性は、
アイデア出しの段階で潰しておくのが最良の段取りだ。

だからアイデア出しには時間がかかるのだ。


素人は、パッと思いついたら、
楽しくなってきて、すぐに書きたくなってしまう。
ちょっと考えて、「書けそう」となって、
プロットを書きはじめて、
十分練られていないにも関わらず、
「思いつかない所はあとで詳しく考えよう」と問題を先送りにし、
空白地帯のあるまま、
楽しい発散思考の状態で、
執筆に入ってしまう。

最初は発散思考が続いているから、
楽しく書けるけど、
どこかで発散思考の連鎖は途切れるから、
そこでどうしてよいか分からなくなり、
途方に暮れてしまう。

まだ思いついていない空白地帯の多さにおののき、
一つ一つを思いつこうとするのだが、
その発散思考には一貫性がなく、
話はぶれ、質にバラツキがあり、
ダッチロールがはじまる。

そしてそれらの発散をうまくコントロールできず、
収束する前に空中分解する。

最後まで書けない挫折だ。


発散思考は、途切れる。
ただそのことを知らないだけなのだ。

思考とは木の成長のようなものだ。
発散思考のときは、どっちに枝がどれだけ伸びるか、
予測なんてつかない。
伸びると思ってた枝が伸びなかったり、
意外なところからするすると行く場合もある。
そして全体の樹形を見て、
美しく剪定するのが、収束思考の段階だ。
本当の幹とはこれだったのか、と再発見したり、
じゃあここに更に枝を伸ばすことが必要だと判断したり、
そこから発散して、また収束して剪定したりする。

そうして、強い一本の幹から、
美しく論理的に枝葉がバランスよく伸び伸びと生えているようにするのが、
作品作りというものだ。

これを、最初に最後までやっておくことが、
実はアイデア出しの段階なのだ。

執筆途中や推敲途中でこれをやろうとするから、
ダッチロールになるのである。

最初に設計をするとは、そういうことを言う。
「これ以上どんなことを思いついても、
そこは全部考えて、
整理したものが既にある」
という自信があるまで、
プロットを書くべきではない。

プロットはつまり、その設計概要書に過ぎないのだ。

だから、「書きながら考える」は、
愚の骨頂なのである。

勿論、ディテールは書きながらでいい。
僕が言っているのは、ストーリーそのものについてのことである。


落ちも決まってないのに、
テーマに凝縮してないのに、
ログラインもコンセプトも定まってないのに、
ディテールの下調べもしてないのに、
書き始めるのは、素人である。

発散し尽くせ。収束し尽くせ。
それを十分にやって、
全貌が整ってから、
初めてプロットに簡潔にあらすじをまとめよ。

プロットを元にストーリーを膨らますのではない。
ストーリーは出来ていて、
プロットはそれのダイジェストに過ぎない。

発散は全て終えてから、
収束は全て終えてから、
書き始めるのだ。


これを知らないから挫折する。

あるいは、
これを知らないチームが、
脚本を書き終えてから、こうじゃないとリライトを始める。
複数の人がこうじゃないと言い出し、
だから映画の脚本は、
ダッチロールし、腸捻転を起こし、
死滅してゆく。

全てを発散すること。
全てを収束すること。
会議室に集まり、全メンバーが朝まで討論していた、
昭和の形式でないとこれは出来ない。
それを怠り、メールベースで修正を加えていくから、
ダッチロールと空中分解が起こるのだ。

あとで思いつきを足すから、嘘に嘘を重ねることがはじまり、
首尾一貫性が失われ、
一本の太い幹がよれていく。

一人でやるときも集団でやるときも、
原理は同じだと僕は思う。


編集で文句言い出すやつらは、最低の素人だ。
posted by おおおかとしひこ at 11:08| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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