2017年10月24日

奇妙な状況

そこに妙な状況が広がっている。
逃げれば済むのだが、
どうにかして付き合わざるを得なくなる。

それが物語のはじまりだ。


奇妙な状況であればあるほど、
それは人目を引くものになる。

付き合わざるを得ない理由が強いほど、
主人公は深く関わらざるを得ない。

奇妙な状況の解消。
主人公が解決しなければならないこと。

この二つが駆動力になり、
物語の焦点になる。
すなわち、
「この奇妙な状況を、主人公は見事に解決できるだろうか?」
だ。
奇妙な状況の解決の仕方、という興味がひとつ。
もうひとつは、主人公への興味だ。
その強い動機が、感情移入に値すればするほど、
観客の焦点は主人公に釘付けになる。

(たとえば、ただ巻き込まれただけ、
だと動機が薄い。単なる親切、でも動機が薄い。
短編なら持つこともあるので、
短編だとその程度の理由が多い。
あと○○しないと殺されるとか。
長編になると、主人公の個人的な強い動機がそこに絡んできて、
主人公のドラマそのものが解決過程に関係してくる。
主人公個人の問題の解決と、
奇妙な状況の解決が、重なりあうのだ)

で。

勿論、その奇妙な状況の解決は、
面白くならなければならない。


失敗作「ハプニング」から。

奇妙な状況は抜群に面白い。
ある日植物がなんらかのガスを出し始め、
人が狂ったり死んだりして行く。
主人公たちはガスのないところへ逃げようとする。
で、これを解決するのは、
どの植物がどういうガスを出しているのか、
何故出しているのか、どうすれば止まるのか、
などを解決しなければならない。

ネタバラシをすると、これがこの映画にはない。
え?そうなん?
何だか分からないけど、分からないまま、
ガスは出なくなっておしまい。

ウルトラQならば、
「人類の進みすぎた文化を、
地球が怒って数をコントロールしたのだ。
また愚かなことをすれば人類の数は減るだろう」
なんて纏めて終わるところ。
そうするとそういうテーマになってしまい、
それはあまりにもベタだから、
ぼかして終わりたいという気持ちも分からなくはない。
しかし、ぼかして終わらされると、
「何も解決していない」という、
モヤモヤしたものになってしまう。

モヤモヤした終わり方には、
未解決事件を扱った実録犯罪ものによくある。

でも実録じゃなくて、フィクションだからなあ。


フィクションとは、架空の時空間で、
現在の複雑な状況を整理して見せる役割がある。

「たとえばなし」はそのひとつ。

私たちはフィクションを書くのが使命である。
複雑で理不尽な現実を、
こうであるべきだ、
実はこうだったのだ、
と、新しいシンプルな世界の見方を提供するのが使命である。

たとえば「マトリックス」は、
「この世界は絶対ではない。
別のやり方で突破できるかもしれない」
という、世界を相対化する考え方を新しく提出した。
(この相対化自体は宗教の時代からあるけど、
それをVRやらコンピュータやらのテクノロジーと組み合わせた所が新しかった。
勿論世界観自体は攻殻機動隊が多大な影響を与えている)

そこまで壮大でなくて構わない。
小さな、世界を新しくする見方や考え方が、
フィクションを通じて理解できるとよいだろう。


奇妙な状況自体は、
いくらでも考え付く。
問題は、それの解決過程と、
そこにどういう意味があるか、
どういう世界の見方を提供するか、
というテーマ性だ。

テーマなんて難しいことを考える必要はない。
ドラえもんは、
科学はおもしろいということと、
それを使う人間が愚かならば、しっぺ返しを食らう、
という世界の見方を提供した作品である。

そのように、名作をとらえ直して考えてみよう。


さあ。
その奇妙な状況は、
どういう結末に結実するのだろう。

そこまで出来たとき、ストーリーが出来た、
ということになる。
posted by おおおかとしひこ at 13:28| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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