僕の説だけど。
小説は、みんなで想像を楽しもう。
映画は、みんなでさらけ出されたこれを見よう。
映画のほうがより即物的で、
露になった何かを見ること。
勿論見たままのそれを楽しむ場合もあるし、
見たままからその奥にある何かを想像して楽しむ場合もある。
しかし後者はより高度なものであって、
映画の場合はそんなに分量は多くない。
何せ映画のハイライトといえば、
アクションや、ラブシーンや、
爆笑シチュエーションコントや、
見世物としての大仕掛け(ロケーション、
美術セット、CG)や、
中に秘めた思いが言葉や仕草になって表出する芝居である。
(叫んだり走ったりするドラマチックなものから、
声色が変わる瞬間とか手のしぐさとか目線などの、
とても細かいものまで)
あるいは音楽による感情の増幅だ。
映画でハイライトと思われているところは、
「目の前に開かれたもの」だ。
人間の内に秘めた、
あるいは人間と人間の間の関係性の秘密的なものが、
見えないものが、見えた瞬間が、
映画のハイライトである。
そうではないかと想像していた部分が、
動かぬ証拠としてその場に出てくるときが、
面白いのだ。
(間違うと出落ちになる。
それくらい、その場に出るということが本質的だ)
たとえばあの二人は付き合ってるのではないか、
と疑念を抱いたとする。
他の人と変わらないように喋っているところを見て、
いや、あれは振りをしてるだけだと推理し、
日曜日に二人で会って手を繋いでるところを目撃すれば、
「見た!」ということになる。
この、見た!こそが、映画の(映像の)強みである。
縮めていうとパンチラだ。
普段は見えないものが、
見える瞬間が、面白いのだ。
映画とは観光である、という言葉もある。
物見遊山なわけだ。
勿論、必ずしも外国ロケをするというわけではない。
「新しい物珍しいものを見る」が、
観光ということ。
(もっとも、新しいロケ地や風景や文化は、
それだけで楽しい。
ロードムービーなんかそれだけでやりがち)
プロデューサーが求めるウリは、
つまりはこういうものだ。
何を見せてくれるのか、
(今なら安く上がるかも一要素)が、
ウリだと解釈して間違いない。
「見る何か」がウリだ。
それは単純なCGでもいいし、お芝居でもいい。
ただし、そのジャンルにおいて一番の尖ったものであるべきだ。
一方、小説は違うと僕は考える。
視覚は奪われる。
その代わり、心の中も描き放題。
地の文なる強力なもので、
神の視点から歴史的解説から、なんでもできてしまう。
つまりは、
視覚的にはつまびらかでないが、
それ以外のことは、すべてつまびらかにできる。
それが小説という形式だと思ってよい。
「見た!」がハイライトにはならないのだ。
内側にあって見えなかったものが、
見えるようになった瞬間は、
ハイライトにならないのだ。
じゃあ何がハイライトになるかといえば、
僕は小説をたいして読んでないので分からない。
ただ、
「鮮やかにそこに何かがあるという光景を想像する瞬間」は、
とても面白い。
恐らくそこが小説の醍醐味(のひとつ)だと思う。
具体で「見た!」を表現するのではなく、
「見えるかな?」を楽しむ娯楽。
漫画やテレビが売れ始めたころ、
小説を読んでいた大人たちが、
「漫画やテレビは受動的メディアであり、
想像する楽しみがない。
これを見ているやつらはバカになる」
と批判した。
双方向性映像メディアであるネットが発達したら、
「自分に都合のいいやつだけを選択するから、
総合的な視点が欠けて、
結局受動的にバカになる」
という批判が行われる。
映像はどこまでいっても、想像する楽しみは提供しづらいということ。
でも、想像する楽しみは提供できる。
なかなか見せずに引っ張ることでね。
それは小説の想像の醍醐味とはまた違うもので、
そこが映画と小説の違いになると僕は考える。
だから、同じストーリーとはいえ、
小説と映画は、楽しみどころが全然違うんだ。
「見た!」を想像するのが小説の楽しみなのに、
それをそのままズルンと出すのは、
間違いの映画化だと思うんだよね。
つまり、映画と小説の重心が異なるということだ。
これは、最近小説を書いていてよく思うこと。
「見た!」面白さを小説では表現できず、
別の面白さが必要なんだなあと気づいたことだ。
2017年10月25日
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