2017年10月25日

小説と映画の違い

僕の説だけど。

小説は、みんなで想像を楽しもう。
映画は、みんなでさらけ出されたこれを見よう。


映画のほうがより即物的で、
露になった何かを見ること。

勿論見たままのそれを楽しむ場合もあるし、
見たままからその奥にある何かを想像して楽しむ場合もある。
しかし後者はより高度なものであって、
映画の場合はそんなに分量は多くない。

何せ映画のハイライトといえば、
アクションや、ラブシーンや、
爆笑シチュエーションコントや、
見世物としての大仕掛け(ロケーション、
美術セット、CG)や、
中に秘めた思いが言葉や仕草になって表出する芝居である。
(叫んだり走ったりするドラマチックなものから、
声色が変わる瞬間とか手のしぐさとか目線などの、
とても細かいものまで)

あるいは音楽による感情の増幅だ。

映画でハイライトと思われているところは、
「目の前に開かれたもの」だ。

人間の内に秘めた、
あるいは人間と人間の間の関係性の秘密的なものが、
見えないものが、見えた瞬間が、
映画のハイライトである。

そうではないかと想像していた部分が、
動かぬ証拠としてその場に出てくるときが、
面白いのだ。
(間違うと出落ちになる。
それくらい、その場に出るということが本質的だ)

たとえばあの二人は付き合ってるのではないか、
と疑念を抱いたとする。
他の人と変わらないように喋っているところを見て、
いや、あれは振りをしてるだけだと推理し、
日曜日に二人で会って手を繋いでるところを目撃すれば、
「見た!」ということになる。
この、見た!こそが、映画の(映像の)強みである。

縮めていうとパンチラだ。
普段は見えないものが、
見える瞬間が、面白いのだ。

映画とは観光である、という言葉もある。
物見遊山なわけだ。
勿論、必ずしも外国ロケをするというわけではない。
「新しい物珍しいものを見る」が、
観光ということ。
(もっとも、新しいロケ地や風景や文化は、
それだけで楽しい。
ロードムービーなんかそれだけでやりがち)


プロデューサーが求めるウリは、
つまりはこういうものだ。
何を見せてくれるのか、
(今なら安く上がるかも一要素)が、
ウリだと解釈して間違いない。
「見る何か」がウリだ。

それは単純なCGでもいいし、お芝居でもいい。
ただし、そのジャンルにおいて一番の尖ったものであるべきだ。


一方、小説は違うと僕は考える。
視覚は奪われる。
その代わり、心の中も描き放題。
地の文なる強力なもので、
神の視点から歴史的解説から、なんでもできてしまう。
つまりは、
視覚的にはつまびらかでないが、
それ以外のことは、すべてつまびらかにできる。
それが小説という形式だと思ってよい。

「見た!」がハイライトにはならないのだ。
内側にあって見えなかったものが、
見えるようになった瞬間は、
ハイライトにならないのだ。

じゃあ何がハイライトになるかといえば、
僕は小説をたいして読んでないので分からない。
ただ、
「鮮やかにそこに何かがあるという光景を想像する瞬間」は、
とても面白い。
恐らくそこが小説の醍醐味(のひとつ)だと思う。

具体で「見た!」を表現するのではなく、
「見えるかな?」を楽しむ娯楽。


漫画やテレビが売れ始めたころ、
小説を読んでいた大人たちが、
「漫画やテレビは受動的メディアであり、
想像する楽しみがない。
これを見ているやつらはバカになる」
と批判した。
双方向性映像メディアであるネットが発達したら、
「自分に都合のいいやつだけを選択するから、
総合的な視点が欠けて、
結局受動的にバカになる」
という批判が行われる。

映像はどこまでいっても、想像する楽しみは提供しづらいということ。

でも、想像する楽しみは提供できる。
なかなか見せずに引っ張ることでね。

それは小説の想像の醍醐味とはまた違うもので、
そこが映画と小説の違いになると僕は考える。


だから、同じストーリーとはいえ、
小説と映画は、楽しみどころが全然違うんだ。
「見た!」を想像するのが小説の楽しみなのに、
それをそのままズルンと出すのは、
間違いの映画化だと思うんだよね。

つまり、映画と小説の重心が異なるということだ。


これは、最近小説を書いていてよく思うこと。
「見た!」面白さを小説では表現できず、
別の面白さが必要なんだなあと気づいたことだ。
posted by おおおかとしひこ at 10:43| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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