カフカの「変身」でも例にとろう。
これが映画になるとしよう。
映画で変身したあとの姿は、一番問題になるところだ。
しかし、どんなディテールを作り込んだとしても、
コレジャナイ感が漂うものになるだろう。
映画の場合、
怪物そのものは、デザインが肝である。
これをおもちゃにして売り出したいという大人の事情はおいといても、
「見たことのない怪物」はそれだけでイコンになる。
ウリそのものになるというわけだ。
だから今までにない斬新なデザインをすることになるだろう。
でもね。
どうやったって、コレジャナイことになるんじゃないかな。
なぜか。
小説は、怪物のデザインで勝負していないからである。
蟲になってしまった、そのディテールは、
わざと全体が描かれていない。
それは、私たちに想像の余地を与えるという作戦だ。
どう描いたとしても、私たちの想像のほうが、
はるかに醜く、興味深いものを想像してしまうからである。
(正確に言うと、見たものより、想像するもののほうが、
より破壊力がある。なぜなら、
想像は、その人の主観的限界いっぱいだからだ)
勿論カフカはそれを知っていて、
蟲の詳細は描写しないことにしている。
それよりも、それを見た人のリアクションを詳細に描いている。
そのものよりも、
それが及ぼす影響を描くのである。
それは、よりそのほうが想像を楽しめるからだ。
映画版になったとき、
容易に想像できる、映画独自のシーンがある。
「どうしてこんなに醜い姿に」と、
嘆くシーンである。
それは、醜い姿がいまここに見えているから成立するシーンだ。
醜い姿が、醜い自分を嘆くから成立する。
これが小説だと成立しない。
醜い姿は、そこに見えていないからだ。
だからただ嘆くだけでは意味がなくて、
他人との相互作用の中で、それを描くことになるだろう。
(それによって、より見えていないことに想像が進む、
という仕掛けだ)
見えていることでやること。
見えていないことでやること。
このふたつは、全く違う方法論である。
だから、「変身」は映画化しない。
見えていないことでやる小説だからだ。
(もっとも、映画の文法内で不可能ではない。
ずっとその姿を映さなければいいからだ。
ということは、小説同様一人称にしてしまえばいいのである。
主観カメラによる全編ワンカットなら、
「変身」を映画化できる可能性がある。
とはいえ、最初に鏡を見るシーンは、
その怪物をつくらなければならない。
顔を写さず、そこだけは後ろ姿で顔を見せない、
などのテクニックを使うと、顔だけは見えない、
という「見せない」映画をつくることができるだろう。
同様に、醜い顔を見せない映画に、
「エレファントマン」がある。
最後に見せたっけ。
子供心に、「引っ張るなよ」と思った記憶がある。
映画はつまり、どこまで行っても、見世物、見せるものだ)
見世物は、見せたら終わりだ。
パンチラは、確認したら終わりだ。
見せないパンチラが小説で、
パンチラを見せて終わるのが映画だ。
2017年10月25日
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