映画で見えるものとは、人の言動である。
つまり、たとえば悪意があるとして、
それが目に見えなかったのが、
たとえばその人の回してきた書類で分かったりする瞬間。
そこにドラマの発生する余地があるわけだ。
映画はどこまでいっても目で見るものだ。
ラジオドラマでも、
映像がそこにあるかのように作る。
(勿論小説的な表現も可能になる。
視覚を奪うことで想像させるわけだ)
しかし小説とは、視覚を奪うことで想像させる娯楽であった。
逆に映画とは、視覚で表現する。
想像していたものが、目の前に具体として現れたとき、
そこに表現が生まれる。
悪意を書類で示すのは、現実でもあることだ。
締め切りに遅れそうなとき、
書類を待ってくれるのが人情だが、
悪意があればそこにつけこみ、
ルールを厳密に適用すると宣言して、
相手を追い込むことが可能になる。
普段は悪意のかけらも感じなかった人が、
突然悪意が顕になる。
そこが面白いようにするのが、
映画という表現技法だ。
この場合、小道具である書類を使った。
分かりやすい小道具はナイフや銃を向けることだろうね。
しかし直接の殺意じゃないところが、
悪意の悪意たるところである。
その間接的なところを、どう具体物で示していくかが、
映画という表現技法だ。
勿論人の言動で示してもいい。
仲間はずれにするという直接的芝居から、
画鋲を靴に仕込むような、匿名的追い込みから、
やり方は色々あるだろう。
写真に針を打つような描写も古典的にはある。
今ならSNSに直接言葉を書き込むか、
間接的に誉め殺しする悪意もあるだろうね。
現代にドラマが成立しづらいのは、
SNSのせいもある。
絵面が小さくなってしまうのだ。
画鋲を靴に仕込むほうが、
スマホをポチポチやる絵よりも、よほどダイナミックで面白いわけだ。
映像的表現は、常に陳腐化との闘いだ。
画鋲を靴に仕込むのは古い表現だ。
私たちは、画鋲を靴に仕込むくらいのダイナミックさで、
スマホをポチポチする地味な絵でない、
新しい悪意が外に出て来る、可視化される瞬間を作らなければならない。
スマホ誕生以降、人は行動しなくなった。
それに逆らうには、スマホ以前の行動を強いるようにすればいい。
SNSだと足がつくからといいわけして、物理的に匿名の悪意を相手に示すようにすればよいわけだ。
(「君の名は」で、相手の名前をfacebookで検索すれば出るだろ、
と外国では突っ込まれまくったらしい。
日本だと普及した本名登録のネットワークはないよね。
村社会だからね。
で、そういうことをかわすために、名前を忘れる、というギミックが生まれたようなものだ。
facebookのせいで、ダイナミックな物語が封じられてしまう)
ネットやデジタル技術は、これまで出来なかったことを可視化してきた。
ビッグデータなんかその典型だ。
でもビッグデータなんて、現状の統計にすぎない。
私たちは、現状の統計の外にある、
人間の本質のようなものを、可視化することが仕事である。
それは、人間の言動によって表現される。
そこに、新奇性があり、本質的で、表現の歴史を更新するものを、考えていく。
2017年10月27日
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