2017年10月27日

見えないものが可視化されたとき、面白くなる

映画で見えるものとは、人の言動である。

つまり、たとえば悪意があるとして、
それが目に見えなかったのが、
たとえばその人の回してきた書類で分かったりする瞬間。
そこにドラマの発生する余地があるわけだ。



映画はどこまでいっても目で見るものだ。
ラジオドラマでも、
映像がそこにあるかのように作る。
(勿論小説的な表現も可能になる。
視覚を奪うことで想像させるわけだ)

しかし小説とは、視覚を奪うことで想像させる娯楽であった。
逆に映画とは、視覚で表現する。
想像していたものが、目の前に具体として現れたとき、
そこに表現が生まれる。

悪意を書類で示すのは、現実でもあることだ。
締め切りに遅れそうなとき、
書類を待ってくれるのが人情だが、
悪意があればそこにつけこみ、
ルールを厳密に適用すると宣言して、
相手を追い込むことが可能になる。

普段は悪意のかけらも感じなかった人が、
突然悪意が顕になる。
そこが面白いようにするのが、
映画という表現技法だ。

この場合、小道具である書類を使った。
分かりやすい小道具はナイフや銃を向けることだろうね。
しかし直接の殺意じゃないところが、
悪意の悪意たるところである。
その間接的なところを、どう具体物で示していくかが、
映画という表現技法だ。

勿論人の言動で示してもいい。
仲間はずれにするという直接的芝居から、
画鋲を靴に仕込むような、匿名的追い込みから、
やり方は色々あるだろう。
写真に針を打つような描写も古典的にはある。

今ならSNSに直接言葉を書き込むか、
間接的に誉め殺しする悪意もあるだろうね。
現代にドラマが成立しづらいのは、
SNSのせいもある。
絵面が小さくなってしまうのだ。
画鋲を靴に仕込むほうが、
スマホをポチポチやる絵よりも、よほどダイナミックで面白いわけだ。

映像的表現は、常に陳腐化との闘いだ。
画鋲を靴に仕込むのは古い表現だ。
私たちは、画鋲を靴に仕込むくらいのダイナミックさで、
スマホをポチポチする地味な絵でない、
新しい悪意が外に出て来る、可視化される瞬間を作らなければならない。

スマホ誕生以降、人は行動しなくなった。
それに逆らうには、スマホ以前の行動を強いるようにすればいい。
SNSだと足がつくからといいわけして、物理的に匿名の悪意を相手に示すようにすればよいわけだ。
(「君の名は」で、相手の名前をfacebookで検索すれば出るだろ、
と外国では突っ込まれまくったらしい。
日本だと普及した本名登録のネットワークはないよね。
村社会だからね。
で、そういうことをかわすために、名前を忘れる、というギミックが生まれたようなものだ。
facebookのせいで、ダイナミックな物語が封じられてしまう)


ネットやデジタル技術は、これまで出来なかったことを可視化してきた。
ビッグデータなんかその典型だ。
でもビッグデータなんて、現状の統計にすぎない。
私たちは、現状の統計の外にある、
人間の本質のようなものを、可視化することが仕事である。

それは、人間の言動によって表現される。
そこに、新奇性があり、本質的で、表現の歴史を更新するものを、考えていく。
posted by おおおかとしひこ at 11:53| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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