2017年10月28日

なぜこのストーリーが面白いのか?2

つづき。

しかしながら、ツカミ自体はわりと誰でも出来る。
冒頭でハッタリをかませばわりと可能だ。
ここに詐欺の横行する余地がある。


たとえば最近だと、
漫画ファイアパンチは冒頭詐欺だったと僕は考えている。
正確に言うと、
冒頭で想定した期待と、
本編の面白さの質が、大幅に異なっていたと考えている。
それは羊頭狗肉ということだ。

冒頭だけ嘘をつく、ということが、詐欺では可能だ。


勿論、詐欺をするつもりでなく、
単なる実力不足で、羊頭狗肉になったものも沢山あるだろう。

アマチュアが書くストーリーは、そうなる確率が高い。
それは、冒頭から結末までストーリーを通して考える経験の不足から来るもので、
数をこなせば学ぶことが出来ると僕は考えていて、
だからここでいくつものシミュレーションをしていこう、
ということをしてるわけだ。

悪意ある詐欺にせよ、若さゆえの過ちにせよ、
羊頭狗肉はストーリーの面白さではない。

逆から見ると、
つまりストーリーとは、尻尾までつまったアンコであるべきだ。

冒頭から面白く、
中盤も面白く、
クライマックスもラストも面白くなければならない。

加えて、それはランダムに並べられた面白さではない。
順次展開する面白さであるべきだ。
しかも、冒頭以上に中盤が面白く、
それ以上に終盤が面白くならなければならない。
つまり、どんどん面白くなって行く必要がある。

冒頭詐欺になるのはつまり、
意図的にせよ実力不足にせよ、
冒頭でハッタリになってしまったということだ。


じゃあ面白いことを10個考えて、
まあまあ面白いから最高まで並べるとストーリーになるのか?
それはストーリーではなく、
10連発ギャグにすぎない。
並べたものはストーリーではなく、並べたものだ。

ストーリーとは、一連に繋がっていることの面白さだ。
1個目から2個目は、関係のない繋がりではなく、
関係のある繋がりでなければならない。
関係のある繋がりとは、
単純なビジュアル合わせやしりとりではなく、
ストーリー的必然性で繋がらなければならない。

ある状況とセンタークエスチョンが生まれた。
その目的を果たすために人は何かをする(行動)。
何かをしたら結果が出る。
成功か、失敗か、半ば成功か。
その状況には他に誰かいるのか。
その人は何をするのか。敵か、味方か、関係ないのか。
それらが因果関係をもち、
1個目から2個目へ移るとき、
それはストーリーという。

ストーリーの因果で、全てが繋がる。
冒頭の状況とセンタークエスチョンから、
それが最終的にどう落ち着くか、までだ。

その一本の線全部が、ストーリーの全貌だ。
それがちゃんとできているか、
つまり因果関係が自然で無理がなく
(これを言及しなければならないということは、
つまりは殆どのストーリーは、
因果関係が雑で不自然で無理がある=ご都合主義の、
横行があるということ)、
かつきちんと収束しているか、
ということが、そのストーリーが成立しているか、
という最低限度だ。

前記事で、状況とセンタークエスチョンさえ示せば、
そのストーリーの面白さを表現できる、
という仮説を示したのは、
そのストーリーが成立している、
という前提の話である。


出来てない話のツカミだけを評価してもしょうがない。
冒頭詐欺との区別がつかない。

冒頭詐欺はそれでも強い。
最初は面白かったから、いつか面白くなるだろうと期待されるからだ。
第一印象というのはそこまで人を左右する。


最低限度のハードルは、「それはどうなるの?」と言わせること。
その3倍くらい高いハードルは、
その期待に応える中盤と、
満足に至る結末があること。

漫画ガンツは結末が最悪だったので、
ストーリーとしては冒頭詐欺、中盤詐欺である。


そして当然だけど、
ラストがダメなものは、0点だと思う。
冒頭でいくら稼いでも。

それがストーリーの難しさであり、
醍醐味だと思うよ。


さらに難しいのは、
見てない人にラストを議論するのは失礼に当たること。
ここがストーリー評論の難しいところ。

ということで、見た人とは結末の話、
見てない人とは状況とセンタークエスチョンの話をするのが、
最も適切な「ストーリーの面白さ」についての議論だと、
僕は考えている。
posted by おおおかとしひこ at 14:23| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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