つづき。
しかしながら、ツカミ自体はわりと誰でも出来る。
冒頭でハッタリをかませばわりと可能だ。
ここに詐欺の横行する余地がある。
たとえば最近だと、
漫画ファイアパンチは冒頭詐欺だったと僕は考えている。
正確に言うと、
冒頭で想定した期待と、
本編の面白さの質が、大幅に異なっていたと考えている。
それは羊頭狗肉ということだ。
冒頭だけ嘘をつく、ということが、詐欺では可能だ。
勿論、詐欺をするつもりでなく、
単なる実力不足で、羊頭狗肉になったものも沢山あるだろう。
アマチュアが書くストーリーは、そうなる確率が高い。
それは、冒頭から結末までストーリーを通して考える経験の不足から来るもので、
数をこなせば学ぶことが出来ると僕は考えていて、
だからここでいくつものシミュレーションをしていこう、
ということをしてるわけだ。
悪意ある詐欺にせよ、若さゆえの過ちにせよ、
羊頭狗肉はストーリーの面白さではない。
逆から見ると、
つまりストーリーとは、尻尾までつまったアンコであるべきだ。
冒頭から面白く、
中盤も面白く、
クライマックスもラストも面白くなければならない。
加えて、それはランダムに並べられた面白さではない。
順次展開する面白さであるべきだ。
しかも、冒頭以上に中盤が面白く、
それ以上に終盤が面白くならなければならない。
つまり、どんどん面白くなって行く必要がある。
冒頭詐欺になるのはつまり、
意図的にせよ実力不足にせよ、
冒頭でハッタリになってしまったということだ。
じゃあ面白いことを10個考えて、
まあまあ面白いから最高まで並べるとストーリーになるのか?
それはストーリーではなく、
10連発ギャグにすぎない。
並べたものはストーリーではなく、並べたものだ。
ストーリーとは、一連に繋がっていることの面白さだ。
1個目から2個目は、関係のない繋がりではなく、
関係のある繋がりでなければならない。
関係のある繋がりとは、
単純なビジュアル合わせやしりとりではなく、
ストーリー的必然性で繋がらなければならない。
ある状況とセンタークエスチョンが生まれた。
その目的を果たすために人は何かをする(行動)。
何かをしたら結果が出る。
成功か、失敗か、半ば成功か。
その状況には他に誰かいるのか。
その人は何をするのか。敵か、味方か、関係ないのか。
それらが因果関係をもち、
1個目から2個目へ移るとき、
それはストーリーという。
ストーリーの因果で、全てが繋がる。
冒頭の状況とセンタークエスチョンから、
それが最終的にどう落ち着くか、までだ。
その一本の線全部が、ストーリーの全貌だ。
それがちゃんとできているか、
つまり因果関係が自然で無理がなく
(これを言及しなければならないということは、
つまりは殆どのストーリーは、
因果関係が雑で不自然で無理がある=ご都合主義の、
横行があるということ)、
かつきちんと収束しているか、
ということが、そのストーリーが成立しているか、
という最低限度だ。
前記事で、状況とセンタークエスチョンさえ示せば、
そのストーリーの面白さを表現できる、
という仮説を示したのは、
そのストーリーが成立している、
という前提の話である。
出来てない話のツカミだけを評価してもしょうがない。
冒頭詐欺との区別がつかない。
冒頭詐欺はそれでも強い。
最初は面白かったから、いつか面白くなるだろうと期待されるからだ。
第一印象というのはそこまで人を左右する。
最低限度のハードルは、「それはどうなるの?」と言わせること。
その3倍くらい高いハードルは、
その期待に応える中盤と、
満足に至る結末があること。
漫画ガンツは結末が最悪だったので、
ストーリーとしては冒頭詐欺、中盤詐欺である。
そして当然だけど、
ラストがダメなものは、0点だと思う。
冒頭でいくら稼いでも。
それがストーリーの難しさであり、
醍醐味だと思うよ。
さらに難しいのは、
見てない人にラストを議論するのは失礼に当たること。
ここがストーリー評論の難しいところ。
ということで、見た人とは結末の話、
見てない人とは状況とセンタークエスチョンの話をするのが、
最も適切な「ストーリーの面白さ」についての議論だと、
僕は考えている。
2017年10月28日
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