2017年10月28日

面白ければなんでもいいか

面白ければなんでもいい。
映画は娯楽であり金儲けであり興行だ。
芸術とか理論とか評論は価値がない。
そう考える人もいる。

たしかに、映画はショーだ。
しかし難しいのは、物語でもあることだ。


具体的に例をあげよう。

コンサートという興行を考える。
選曲を考えよう。

誰でも知ってる盛り上がる曲から始めて、
バラードでしっとりさせて、
最後は王道でしめるような構成にするだろう。

曲と曲の繋ぎは?
特に理由はなくていい。
面白ければ=盛り上がりさえすれば、
この曲の次に来る曲の必然性はない。

これは、コンサートが物語ではないからである。


ところが、物語というのは、
コンサートで例えるなら、
ある曲の次は、必然性のある曲でなければならない。
しかも、必然性で繋がった全部が、
最後に落ちがなければならないのだ。

コンサートの曲にそういう例はないだろう。
曲はひとつが単位であり、それ自体で完結している。
完結しているもの同士をただ時間軸に、
並列で並べている。
たとえばデビュー曲から最新曲までを時系列に並べたとしても、
それは物語ではない。
ある曲から次の曲へつながる必然性がない。
時系列があるから物語に見えるけど、
それは物語的連鎖ではない。
曲がひとつで完結しているからだ。

逆に物語というものは、
ワンブロックで完結していない。
あるワンブロックは、必ず前のブロックの未完を受け、
続きを展開し、未完のまま、
次のブロックへ接続する。
例外はファーストシーンとラストシーン。
ファーストシーンは0から何かがあって次へ続く。
ラストシーンはもうこれ以上続かない、完結した感じがある。

面白ければなんでもいいわけではない。
物語は、このような構造上の制約の中で、
面白いことをしなくてはならないのだ。


面白ければなんでもいいと、脚本を書いてみなさい。
それは部分的には面白かったり盛り上がったりするかもだが、
通して見たら支離滅裂でちぐはぐなものになる。
コンサートはそれで構わない。
曲と曲の間に区切りがあるからだ。
そして客は、曲と曲の繋がりに論理的必然性を求めていないからだ。

逆に、物語は、シーンとシーンの繋ぎに、
物語的必然性を求められるというわけだ。


面白ければなんでもいい。
それが物語の構造をしてればね。

物語の構造をしていない、「面白ければなんでもいい」は、
映画の体をなしていない。

初心者の作る話は、これに陥りがち。
面白くなくても、まず物語を書きなさい。
posted by おおおかとしひこ at 16:18| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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