ローマ字入力は脳内発声あり、
カナ入力は脳内発声なし、
という仮説を以前たててみた。
ところが最近、
ローマ字入力であるカタナ式で、
脳内発声を伴わない言葉が増えてきたことに気づいた。
たとえば、
「かも知れない」「気がする」などの語尾をどうやら僕はよく使うらしく、
これらは一気に手の流れとして記憶している。
「か」「も」「し」「れ」「な」「い」と考えるわけではなく、
「かも」「しれない」と考えるわけでもなく、
「かも知れない」と、
手の流れが一対一対応している感じ。
つまりひとつの概念とひとつのコマンドが対応している感じだ。
たとえば波動拳コマンドに考え方が近いかも知れない。
最初は下から右に回してボタン、みたいな細切れのオペレーションが、
中足キャンセル大波動までワンボタンみたいになる感じ。
よく使う語尾や語頭、
たとえば「ということで」とかは、
もう脳内発声なく、
ワンボタンコマンドみたいに手が動くようになってきている。
これは、恐らく手で文字を書くことと、
同じではないだろうかというのが本題。
先日、手を浮かして打鍵すべきか、
ベタ置きで打つべきかについて、
ひとつの実験をした。
結果として言えたのは、
「打ち慣れた言葉は高速の手首浮かせで打ち、
打ち慣れてない言葉は遅いが確実なベタ置きで打つ」
という、ほとんど直感どおりの答えであった。
この、打ち慣れた言葉について、
脳内発声が起きていないことに、
最近気づいた。
逆に言うと、
打ち慣れてない言葉だけが、脳内発声がある。
指差し確認のように、
ゆっくり確実に打つための無意識なのだと考える。
実はこれは手書きで文字を書くときも同じで、
固有名詞や数字などは、
脳内発声や実際の発声ありで、書くよね。
でも書き慣れた自分の名前や、自分の電話番号や社員番号なんかは、
わざわざ脳内発声しないよね。
固有名詞や数字以外でも、
手書きで書くのは、数十年書いてきた言葉たちが殆どだ。
だから脳内発声なんてほとんどないということではないかなあ。
初めて行く土地、
たとえばダラス経由リオデジャネイロのコパカバーナ海岸、
なんて言葉は、もう脳内発声無しでは文字に書くことは出来ない。
初めて経験する業界の用語は、
難しい言葉でなくても脳内発声なしはしんどいだろう。
たとえばヤオヤとか。
(映像業界で、水平のものを手前に傾けてカメラに見やすくすること。
八百屋の陳列に似てるから)
つまりは、
脳と手が繋がってる言葉ほど脳内発声がなく、
脳と手が繋がっていない言葉ほど脳内発声がある、
という仮説が成り立つわけである。
もうちょっと定式化すると、
「脳内発声は手の習熟度の逆数である」
みたいなことか。
つまり、僕はカタナ式に習熟しはじめている、
ということになる。
半年立たずにそうなってきたということ。
こう考えると、
ローマ字方式だろうがカナ方式だろうが、
それはどうでもよくなる。
習熟しやすいかどうか、
つまり脳内発声がどれだけ止むかということと、
習熟後の運指効率だけで、
評価をすればいいのではないだろうか?
そういう意味では、
僕はカナ入力は良くないと思う。
習熟に時間がかかり、
かつ運指が滑らかとは思えないからだ。
(もっとも僕は習熟まではいかなかったので、
熟練者の感覚がないので客観的な意見ではない。
親指シフトより飛鳥配列のほうが運指効率がいい、
ということは経験的に言える)
勿論QWERTYローマ字はそれを大きく下回る最低クラスだ。
習熟は速いけれど、
熟練後の運指効率は甚だしく悪い。
カタナ式は、
習熟までも速く
(ローマ字、子音母音左右分離、濁音シフトによる濁音子音キー削減)、
熟練後の運指効率についてもかなりいい
(使用キーが少ないことでアルペジオが頻発。
上位300二文字頻度では6割アルペジオ打鍵)
と感じている次第だ。
結果的に、脳内発声がやみ、
脳内が静かになり、
思考に集中できるようになってきた。
手書きと同じ道を、
打鍵でたどり始めたというわけだ。
勿論、右手の人差し指(と残りの指の支え)の僅かな動きだけで書く、
手書きのほうが運指効率がいいのは不動だけど。
で、面白い現象があって、
手書きで書いてるときに、
無意識にカタナ式の運指をやろうとしてしまうんだよね。
バイリンガルにありがちな現象というわけ。
両方に習熟すればいずれこの混乱は止む。
それまでの過渡期現象として、
楽しんでる状態。
ちなみに昨日は16000文字を打った。
腱鞘炎にはなっていない。
肩甲骨の柔軟が効いた模様。
終わったあとの整理運動も重要だね。
2017年10月31日
この記事へのコメント
コメントを書く