日本は平和になったのかな。
アメリカ映画のような明確な敵が減った気がする。
かわりに増えたのは、ライバルのような気がする。
アンタゴニストとは、主人公への敵対者だが、
明確な敵サイドよりも、
同等のサイドで能力的に異なる、
ライバルという敵対者が日本の物語で増えた気がする。
それは、人類が敵対し続け、戦争し続け、
敵の民族を根絶やしにし続け、略奪し、蹂躙してきた歴史の上にある。
二度の大戦を経て、
人類は「敵も人類である」という認識に、初めて辿りついた。
日本なんか、鬼畜米英だったんだぜ。
鬼退治だったんだよ。戦争は。
敵は鬼なる異民族で、理解できない別の生き物ではない。
敵も人類であり、文化や生活を持ち、
意志があり、秩序と平和を重んじる、
我々と同じような感情を持つ民族で、
たまたま住む場所や言葉や文化が違っただけである、
という認識が、
20世紀から21世紀にかけて生まれてきた。
だから、敵を滅ぼす、という単純な図式での物語が、
つくりにくくなった。
インディアンは西部劇の悪役だが、
先住民族を滅ぼしかけたのは入植者側だという歴史認識ができてきた。
味方対敵という図式ではなく、
相手も相手の都合があって戦っているのだ、
という相対的視点を僕ははじめてガンダムで学んだ。
困ったのは、物語である。
物語は、敵が必要だ。
道義的に許せない悪を、メッタメタにするのが爽快なのだ。
正義は勝つ。悪は死ぬ。
だからスカッとする。
それが物語の根本構造である。
いっとき仮面ライダーが逮捕するシリーズがあると聞いて、
耳を疑った記憶がある。
怪人に人権を求めるだと?
悪は悪だろう。それを爆発させるから正義だ。
そもそも仮面ライダーシリーズは、
絶対悪としてのナチスを敵にするところから始まっている。
しかし正義相対主義は人類の宝である。
物語より優先かもしれない。
だから、物語はあおりを食って、面白くなくなってしまった。
敵はいない。
理解できない民族ではない。
敵も人間。
だから、殺してよい敵はいない。
それじゃあつまらないから、
敵ではなく、アンタゴニストはライバルになってゆく。
殺し合う、理解できない相手ではなく、
理解できるが、競合する相手として描かれる。
これはつまらない。
なぜなら、それは結局なれ合いだからだ。
物語のエンジンはコンフリクトである。
そしてコンフリクトが面白くなるときは、
危険があるときだ。
ライバルとの闘いでは、危険はないんだよね。
それがなれ合いという意味だ。
理解出来ない民族との、
命を懸けた殺し合いのほうが、
危険のあるコンフリクトが描ける。
逮捕して裁判所に送る法治国家より、
権力の及ばないところで人知れず闘うアンダーグラウンドのほうが、
危険な魅力がある。
つまり、物語が面白くなるのは、
なれ合いとは真逆の、
危険がある時だ。
これは「アンタゴニスト=ライバル」にはない、
魅力だといってよい。
つまり、アンタゴニストとは、理解しあってはいけない。
同じ人間だけど、
やつとは相いれない、というくらいに、
憎み合うべきだ。
憎み、許せないと思い、
危険がある、
そういうぎりぎりだからこそ、
物語は面白くなる。
許せないというのは重要で、
それはつまり、主人公から見れば悪なのだ。
この緊張感は、いわば内輪のライバルでは得られない。
身内のことより、外の危険のほうが、物語的なのだ。
人類は相対主義を手に入れた。
しかし物語とは、それより以前のパラダイムで動いている。
だから敵は鬼であるべきだ。
(鬼は勿論象徴的な意味)
そのときに、もっとも物語は燃え上がる。
あなたの話がゆるいなら、
敵を鬼にして、殺しに行く話にするといいだろう。
悲壮や危険や憎悪をまとう話にするといいだろう。
感情は強いほどいい。弛まないことだ。
逆にストーリーを作るということは、
この相対主義の世の中に、
新しい鬼を発見するということに、ほかならない。
(これはトランプの外交手段として使われている。
北朝鮮を鬼と設定することで。
あるいはネトウヨは韓国をそのような鬼と設定することで、
理解しやすい物語を描いている。
宗教戦争を例にとるまでもなく、
物語は政治の道具に利用されることもある。
第一、大統領演説を書くのは、本人ではなくライターの国だからね。
分りやすいストーリーを書く能力の悪用ともいえるよね)
2017年10月31日
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