願望は我々の味方であり、敵であり、最後に味方になる。
願望は我々がなにか書くことの、最初の動機の一つになる。
こういうものが見たい、こういう話が書きたい、
こういう感じのものが欲しい。
それは我々を夢想の旅に連れてゆき、
そのうち形になってくる。
それが良いかどうかのチェックは、
最初に夢想したものに照らして、
ただしいかどうかで決めるものだ。
OKの基準は最初の夢想の中にある。
(逆に、最初の夢想の中にないものが出て来ると、
どっちがいいか迷ってしまう。
迷わずにすべてを効率よく選んでいけるのは、
最初の夢想が深いからである)
しかしながら、
願望がすぎると、それは現実離れをはじめてしまう。
そんなわけないやろ、となってしまう。
モテナイ男がなぜかアイドルに告白されて?とか。
問題は、「それは願望である」ということに、
作者が自覚的であるかどうかだ。
自覚的でないと、気づかない。それはオナニーになってしまう。
優れた書き手は、それが願望に過ぎない、
リアリティーがないと気づいている。
気づいているからこそ、
あり得ない願望が、あり得るような物語の嘘を思いつく。
それが創作である。
たとえば、「なんでも夢や欲望が叶う道具がほしいなあ」
という願望があったとする。
これは人の欲望のひとつだ。
アラジンの魔法のランプを例に出すまでもないだろう。
これに対して、
「ぐうたらな先祖を鍛えるために、
未来から派遣された未来の道具をつかえるロボットが来た!」
という創作で答えるのが、
ドラえもんという物語だ。
このいわば「うまいいいわけ」を考えだすことこそ、
願望を願望のままに終わらせない、
創作という魔法なのである。
たとえば、女の子を部屋に誘ってセックスしたいとする。
これは願望だ。
これが成立する言い訳を、女の子に用意するのが、
やりちんの方法論である。
たとえば「部屋にハムスター飼ってるけど、見に来る?」である。
これは実際にイケメンが使っているのを見たことがある。
もちろん初手で使うのではなく、
十分いけているところで最後に使うから効果的なのだろうね。
願望は願望だ。
誰でも色々持っている。
しかしそれは、リアル世界では色々な理由で叶わない。
だから願望なのだ。
それを成立させるための嘘をつく力が、
ストーリーテラーには求められるのである。
願望は最初味方であるが、
次には敵になる。
それは、自分が願望を満たすことで満足してしまい、
リアリティーの構築、
うまい嘘をつくこと、という義務を忘れてしまうからである。
出来上がるのはご都合主義だ。
なんでそうなるのかわからない、だ。
モテナイ男が突然アイドルに告白されるのは、
願望である。
それがなぜか、というリアルな言い訳を創作するのが、
創作なのである。
(どっきりでした、というのは例えばありそうだ)
ロボット同士の戦闘が見たい、という願望に対して、
レーダー戦ゆえに、そんな近接戦はないというリアルがあった。
そこに
「レーダー波が効かないミノフスキー粒子が核戦争の結果充満し、
戦争は再び有視界戦闘に戻った」
という嘘をついたのがガンダムである。
その嘘を認める限り、
世界はリアリティーで構築され、
我々の願望を満たす世界がつくられる。
これをフィクションという。
願望は我々の味方であり、敵であり、最後に味方になる。
最初期の妄想には見方だ。
作者のモチベーションになる。
次に敵になる。
単なる願望発露だけで満足してしまいがちだ。
その誘惑に負けないように、
言い訳を上手につくらなければならない。
(そしてそれが一番難しい)
そして、最後にはまた味方になる。
それさえ出来れば、
あとは爆発し放題だからだ。
イケメンの部屋にいきたい女の子だって、
ほんとうはセックスしたい願望がある。
しかしいきなりそれではリアリティーがないから、
いったんハムスターを見に行くという言い訳に乗っかるのだ。
あとは願望を爆発させるわけだね。
私たちは、
そんな、うまい言い訳を考える、
詐欺師である。
フィクションとは、嘘のことだからね。
嘘なのにリアリティーが必要なんだよね。
それは、上手な嘘ほど、ほんとうと見分けがつかないからだよね。
2017年11月01日
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