2017年11月02日

理解しないと書けない

すごく当たり前のことなんだけどね。

デッサンにたとえて書いてみる。


人体のポーズが描けないというのは、
わりとよくある初心者の悩みだ。

でもそういう人に限って、
関節の位置や、パーツの大きさの比率を知らない。

歩くときにどう関節が動いているか、
座るときに関節がどう動いているか、
体重をかけるときとかけないときは何が違うのか、
などを知らなかったりする。

あるいは、モデルのポージングを知らなかったりする。
モデルの美しい歩き方を知らなかったりする。

ペンを持つ手を描くのは難しい。
でも柚比の間接や比率を知らないと、
どう指が曲がっているのか、描けない。

人体の骨格や筋肉を調べて、一回絵にかいてみるのは、
そういうことを理解するためだ。
背骨はどういうアールを作っているのかとか、
背筋がどうついてるかとか、
太股の筋肉のつき方とか、
なかなか理解しないとかけない。

首がどっちにどこまで曲がるのか、
それを知らないと自然な顔の角度はかけない。
これ以上曲がるわけがないとか、
判断できないとデッサンはすぐ狂う。

デッサンは、理解するためにする。
軽く描いてみるのは、
それらがどのようなパーツからなり、
どのように相互作用するか理解するためにやる。

人体以外もそうだ。
建築物、バイク、金属、布、水の反射。
どういうものがどういう構造で、
どう相互作用しているか理解しないと、
絵は描けない。


これは、ストーリーも同じということ。

こういうとき人間はどうするのか。
こういうとき社会はどうするのか。
どういう文脈があり得るのか。
どういう行動があり得るのか。
どういう世界の常識があって、
どういう非常識があるのか。
それはどのような理由に基づくのか。
どういう成功があってどういう失敗があるのか。
それらはどう、なぜ、違うのか。
どういう言い方や知恵があるのか。
どういう過ちや無知があるのか。

こういうことを、理解していないと書けないと、
僕は思う。

正確にいうと、自分の知ってる範囲内のことは、
いちいち理解しなくても書ける。
理解してるからね。
ほとんど無意識レベルで書ける。

しかし、自分の知らない範囲のことは書けない。

たとえば僕はバット職人のことは書けない。
彼らの人生を理解していないから。
勿論想像である程度書けるけど、
本人からしたら全然分かってない、
と言われる可能性は高い。

人間を分かっているか。
社会を分かっているか。
人生を分かっているか。

作家とは、これらを、完璧にとまでは言わないが、
ある程度分かっている人のことをいう。


分かれば書けるかというと、
またそれはそれで違う障壁はある。
しかし分かってないことだけは書けない。
逆に、書くこととは、ここまでは分かっている、
というラインだと思うよ。

取材は広く深く。
自分が分かったという範囲までだ。
posted by おおおかとしひこ at 13:26| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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