2017年11月03日

創作とは、我々の中の子供と取っ組み合うことだ

たとえば、ジェットコースターの設計の仕事を考えよう。


ジェットコースターを設計しようと思ったら、
子供心に帰ることである。
うおーきゃーこえーうおーといいながら、
コース設計をするといい。
ちょっとしたスパイスや伏線的なことは、
もう少し大人になってから入れられる要素かもしれない。

で、大体できた頃、
大人の視線になる。

危険はないか、
Gは行きすぎてないか、
弱い人でも耐えられるか、
製作コスト(たとえば同じ部品を使うならコストが押さえられたり)、
運用コストやメンテナンスのしやすさ、
雨の日や風の日のメンテナンス性、
などなどについてだろう。

子供の行為を大人としてチェックし、
また子供心に戻ってうおおおおと言えるか、
をチェックする。
その繰り返しで出来上がっていく。

で、子供と大人の両方が満足するときが、
完成だと言える。

子供と大人が互いの言い分を主張して喧嘩するときもあるだろう。
子供は100回転したいといい、
大人は3回転までだというだろう。
逆に子供はストレートでばれることをする代わりに、
大人が一回視界を奪ってからのほうが恐怖は煽れる、
などの技を効かせることもあるだろう。

それらの格闘が決裂すれば、
最後まで完成することはない。

妥協で完成したら、
いまいちなものになる。
最もいいのは、双方が満足する、
完璧なものにすることだ。
(実際のところ、いくらか妥協があるのが現実だろう)


で、多分ストーリー作りもこれと同じだ。

子供が、見たい場面を連発する。
願望を連発する。

大人が、その辻褄をあわせてゆく。

あるいは、普通こういうときはこうだと、
セオリーを持ってきたり、
世間の人はこれを見たらこう誤解する、
歴史的に見てこれは既にやられている、
などと調整を利かせたりする。

表現したい欲と、
それが外から見たときはどう見えているかということ。
客観的なことを保つことは難しい。

だからこそ、
自分のなかに大人と子供を飼うことだ。

彼らを格闘させて、合意点を探さなければならない。
民主主義は時間がかかる。
しかし本当の正解にたどり着けたときは、
全員の目から見て完全なものである。

子供の目で作るときは一瞬だ。
欲望で作るからね。
でもそれは最も強く、勢いがある。
大人はその矛先をうまく誘導するように下準備をする。
そういう関係が望ましい。
posted by おおおかとしひこ at 14:27| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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