たとえば、ジェットコースターの設計の仕事を考えよう。
ジェットコースターを設計しようと思ったら、
子供心に帰ることである。
うおーきゃーこえーうおーといいながら、
コース設計をするといい。
ちょっとしたスパイスや伏線的なことは、
もう少し大人になってから入れられる要素かもしれない。
で、大体できた頃、
大人の視線になる。
危険はないか、
Gは行きすぎてないか、
弱い人でも耐えられるか、
製作コスト(たとえば同じ部品を使うならコストが押さえられたり)、
運用コストやメンテナンスのしやすさ、
雨の日や風の日のメンテナンス性、
などなどについてだろう。
子供の行為を大人としてチェックし、
また子供心に戻ってうおおおおと言えるか、
をチェックする。
その繰り返しで出来上がっていく。
で、子供と大人の両方が満足するときが、
完成だと言える。
子供と大人が互いの言い分を主張して喧嘩するときもあるだろう。
子供は100回転したいといい、
大人は3回転までだというだろう。
逆に子供はストレートでばれることをする代わりに、
大人が一回視界を奪ってからのほうが恐怖は煽れる、
などの技を効かせることもあるだろう。
それらの格闘が決裂すれば、
最後まで完成することはない。
妥協で完成したら、
いまいちなものになる。
最もいいのは、双方が満足する、
完璧なものにすることだ。
(実際のところ、いくらか妥協があるのが現実だろう)
で、多分ストーリー作りもこれと同じだ。
子供が、見たい場面を連発する。
願望を連発する。
大人が、その辻褄をあわせてゆく。
あるいは、普通こういうときはこうだと、
セオリーを持ってきたり、
世間の人はこれを見たらこう誤解する、
歴史的に見てこれは既にやられている、
などと調整を利かせたりする。
表現したい欲と、
それが外から見たときはどう見えているかということ。
客観的なことを保つことは難しい。
だからこそ、
自分のなかに大人と子供を飼うことだ。
彼らを格闘させて、合意点を探さなければならない。
民主主義は時間がかかる。
しかし本当の正解にたどり着けたときは、
全員の目から見て完全なものである。
子供の目で作るときは一瞬だ。
欲望で作るからね。
でもそれは最も強く、勢いがある。
大人はその矛先をうまく誘導するように下準備をする。
そういう関係が望ましい。
2017年11月03日
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