2017年11月07日

物語とは誘導である

水墨画の極意。
ぱっと目立つところをつくる。
その隣に目がいくところをつくる。
その隣に目がいくところをつくる。
同様にして、視線を誘導していく。
それが絵全体を貫く視線誘導。
周辺視野で、おまけを見るようにする。
時間があればじっくり見れるようにしておく。

つまり、誘導するのが極意。
すなわち、絵に流れがあるようにする。


西原理恵子は、
うまい人の絵は、「絵から風が吹く」と形容している。
これは流れをうまく描いているということに他ならない。
躍動感があり、まるで風が吹いているような絵は、
明らかに方向性をもち、
その方向に視線が誘導される。

うまい絵とはつまり、
静止しているにも関わらず、動いているように見える、
動きを感じる絵だ。
あるいは、我々が動いてしまうような絵だ。
我々が動いてしまうということは、
つまりは絵の流れに(無意識に)流されているということである。


逆に、下手くそな絵師は、
動きを描けない。
それは死んだ絵だ。
いきいきしていない絵だ。
(勿論、この古典論を否定して、
わざといきいきしていない絵を描く現代美術、
抽象絵画もありえる。
しかしここで述べるのは、
映画のアナロジーとしての具象画の話である)


静止している絵ですら、
このように視線誘導がある。

これは、情報量を圧縮している。

静止画で伝えられるものを、
その動きに限定している。
周辺視野は捨てるためだ。

もし動きがない、死んだ絵ならば、
周辺視野まで全部を埋めて、
情報量を詰め込むことができる。
たとえば曼陀羅はそのような絵である。

しかしうまい絵は、
そこから動きをつくり、
周辺視野を捨てて、
その動きに限定することで成り立つ。


物語も同じだ。

現実はカオスだ。
理不尽で不可解なことが起こる。
それらはたくさんたくさん同時進行している。
ひとつを見ていたら他が見れない。
全知全能の神はいない。
それらを全部観察できる観察者は、いない。
(仮にこの世界がバーチャルだとしても、
全ログを解析してる人はいないだろう)

物語は、その膨大な中から、
周辺視野へ要らないものを捨てて、
必要なひとつの動きだけを抽出する。

それこそが、事件から解決までの一連である。

それらは焦点で接続され、
約15分に1回(2時間映画の場合。これは僕の説)の
ターニングポイントで様相を変えながら、
飽きないように工夫されている。

ひとつのメインの一本に対して、
サブラインもあり、編み上げる糸のようになっているのが殆どだけど、
それにしてもメインを抽出すれば、
それはたったひとつの一連の動きだ。


つまり、
あなたは、誘導をするのが仕事だ。

興味や興奮や刺激や、
予想や期待や裏切りや意外や期待通りをうまく並べて、
それらが持続するように、より強くなるように。
それが一貫した理屈のもとに、
自然に展開するように誘導する。

焦点が途中で途切れたり、
接続が不自然だったり、
ターニングポイントで全然別の話になって、
ついていけなくなるのは、
つまりは誘導が下手なのだ。


一貫したひとつづきの話であること。
それは、水墨画の視線誘導に似ている。

誘導される側は、誘導されていることに気づかない。
興味のまま、自分の意思でその方向へ興味が湧いていると、
無意識に思っている。

そのようにするのが最上だ。


あなたは、どのようにして、観客の、
興味を、興奮を、心を、理性を、予想を、満足を、
誘導しているか?

あなたの掌の上は、どうなっているか?


初心者ほど、自分が何かやることで一杯一杯で、
誘導なんて考えたこともないかもしれない。
一回見てすごく面白かった映画を、
どうやって誘導しているか、冷静になって考えよう。
このジェットコースターを設計した人がいて、
まんまとその通りに興奮したり泣いたりしたはずだ。
それはどのような誘導であったのか、
分析すると勉強になる。

それは、わざとらしくてはいけない。
あまりにも自然でリアルで、まさかそれが作者の誘導だとは、
気づかなかったもののはずだ。
posted by おおおかとしひこ at 09:23| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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