水墨画の極意。
ぱっと目立つところをつくる。
その隣に目がいくところをつくる。
その隣に目がいくところをつくる。
同様にして、視線を誘導していく。
それが絵全体を貫く視線誘導。
周辺視野で、おまけを見るようにする。
時間があればじっくり見れるようにしておく。
つまり、誘導するのが極意。
すなわち、絵に流れがあるようにする。
西原理恵子は、
うまい人の絵は、「絵から風が吹く」と形容している。
これは流れをうまく描いているということに他ならない。
躍動感があり、まるで風が吹いているような絵は、
明らかに方向性をもち、
その方向に視線が誘導される。
うまい絵とはつまり、
静止しているにも関わらず、動いているように見える、
動きを感じる絵だ。
あるいは、我々が動いてしまうような絵だ。
我々が動いてしまうということは、
つまりは絵の流れに(無意識に)流されているということである。
逆に、下手くそな絵師は、
動きを描けない。
それは死んだ絵だ。
いきいきしていない絵だ。
(勿論、この古典論を否定して、
わざといきいきしていない絵を描く現代美術、
抽象絵画もありえる。
しかしここで述べるのは、
映画のアナロジーとしての具象画の話である)
静止している絵ですら、
このように視線誘導がある。
これは、情報量を圧縮している。
静止画で伝えられるものを、
その動きに限定している。
周辺視野は捨てるためだ。
もし動きがない、死んだ絵ならば、
周辺視野まで全部を埋めて、
情報量を詰め込むことができる。
たとえば曼陀羅はそのような絵である。
しかしうまい絵は、
そこから動きをつくり、
周辺視野を捨てて、
その動きに限定することで成り立つ。
物語も同じだ。
現実はカオスだ。
理不尽で不可解なことが起こる。
それらはたくさんたくさん同時進行している。
ひとつを見ていたら他が見れない。
全知全能の神はいない。
それらを全部観察できる観察者は、いない。
(仮にこの世界がバーチャルだとしても、
全ログを解析してる人はいないだろう)
物語は、その膨大な中から、
周辺視野へ要らないものを捨てて、
必要なひとつの動きだけを抽出する。
それこそが、事件から解決までの一連である。
それらは焦点で接続され、
約15分に1回(2時間映画の場合。これは僕の説)の
ターニングポイントで様相を変えながら、
飽きないように工夫されている。
ひとつのメインの一本に対して、
サブラインもあり、編み上げる糸のようになっているのが殆どだけど、
それにしてもメインを抽出すれば、
それはたったひとつの一連の動きだ。
つまり、
あなたは、誘導をするのが仕事だ。
興味や興奮や刺激や、
予想や期待や裏切りや意外や期待通りをうまく並べて、
それらが持続するように、より強くなるように。
それが一貫した理屈のもとに、
自然に展開するように誘導する。
焦点が途中で途切れたり、
接続が不自然だったり、
ターニングポイントで全然別の話になって、
ついていけなくなるのは、
つまりは誘導が下手なのだ。
一貫したひとつづきの話であること。
それは、水墨画の視線誘導に似ている。
誘導される側は、誘導されていることに気づかない。
興味のまま、自分の意思でその方向へ興味が湧いていると、
無意識に思っている。
そのようにするのが最上だ。
あなたは、どのようにして、観客の、
興味を、興奮を、心を、理性を、予想を、満足を、
誘導しているか?
あなたの掌の上は、どうなっているか?
初心者ほど、自分が何かやることで一杯一杯で、
誘導なんて考えたこともないかもしれない。
一回見てすごく面白かった映画を、
どうやって誘導しているか、冷静になって考えよう。
このジェットコースターを設計した人がいて、
まんまとその通りに興奮したり泣いたりしたはずだ。
それはどのような誘導であったのか、
分析すると勉強になる。
それは、わざとらしくてはいけない。
あまりにも自然でリアルで、まさかそれが作者の誘導だとは、
気づかなかったもののはずだ。
2017年11月07日
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