主人公の前に立ちはだかる試練。
後ろは絶体絶命の崖。
それを成し遂げなければならない事情。
それをする責任感。
それが物語である。
しかし、それに作者自体がびびっちゃうことがある。
つまり、主人公が受けているプレッシャーを、
同様に感じてしまうのだ。
これは感情移入がうまくいっている証拠だから、
そのプレッシャーが来たら、
よし、よく書けている、とまずは安心しよう。
ところで、このプレッシャーを打ち破る方法はあるだろうか?
事前にプロットで準備はしてあるはずだ。
どうやってこれを切り抜けるか、
綿密な計画を練っているはずである。
だから本当はプレッシャーに押し潰されるはずはない。
この先を決めていないのなら、
それは危険だ。
いますぐどうやって乗り越えるのかを、
計画しなければならない。
さて、計画があったら安心するのか。
実はそうではない。
計画してるはずなのに、
プレッシャーは依然として作者にかかる。
それは、
「ほんとにうまくいくの?」
「ほんとに爽快に見事に解決してくれるの?」
という、無言の期待があるからである。
絶体絶命のピンチはいつも面白い。
主人公の感じるプレッシャーを、
観客も同様に感じる。
この逆境を逆転するだって?
一体どうやって?
これは、観客と作者のバトルでもある。
ご都合主義で解決してしまっては作者の負けだ。
伏線のあれでやるんだろ?と読まれてしまっても作者の負けだ。
伏線のあれを使うのかも知れないけど、
どうやって使うのか分からない、
と観客がもやっとしていたら、作者の思う壺である。
誘導は成功している。
出来れば度肝を抜きたい。
セカンドベストは、成程と感心されることだ。
恐らくは、それがうまくできるかどうか、
作者はプレッシャーを受けている。
年を取ったおっさんは、
セックスをするときに、「今日は立たないかも知れない」
とプレッシャーを受けるのだそうだ。
愛する人を満足させられるかどうかに、プレッシャーがかかる。
そもそもちんこは自分の意思で立ったり収めたり出来ないものである。
若いときは暴れん坊だったけど、
その暴れがやってこないかも、と不安にかられ、
それがプレッシャーになる。
主人公のピンチに、作者が感じるプレッシャーは、
これと同じことかも知れない。
大丈夫、今回もうまくやれるさ。
そう思ってダイブするしかないのは、
セックスと同じだ。
ある程度の計画や段取りがあるから、
そこに乗っかればいい。
時にアドリブをかましてもいい。
脱線したら本線に戻せばいい。
セックスと違って、脚本はリライトできる。
全部書き直したっていいんだ。
安心してダイブせよ。
そして、「今回もうまくやってやったぞ」とほくそ笑もう。
面白い解決を。
そう感じるプレッシャーは、
毎回立つだろうかと不安になるおじさんの気持ちだ。
立つかどうかは、飛び込んでみないと分からない。
だから我々はとにかく書くしかないのだ。
当たって砕けろ。
砕けたらまた当たれ。
2017年11月07日
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