2017年11月08日

学ぶことに関する話

前のカタナ式の記事は、
脚本論にも通じるので、こっちにも書いておく。


僕は脚本理論的なものは、
運動技能に近いと以前から言っている。

思考の仕方の習得であって、
運動技能ではないのではないか、
と直感的には思うけど、
結局出力は手からになるから、
運動だと思う。

運動というのに語弊があるなら、
オペレーションと考えるといい。

たとえば因数分解や初歩の方程式の解放は、
僕は運動技能の習得だと考えている。
体は動かさないが、
オペレーションと結果を結びつけることが必要だからだ。

料理もオペレーションだ。
数学は頭の中の抽象概念を料理しているに過ぎない。

これらは全部同じ学習法が有効だ。


最初は一人の教師についてガッツリやる。
大体マスターしてきたかなと思ったら、
別の教師の話も聞いて、試してみるといい。

最初の教師のやり方では考えられなかった、
新しい知見を得ることができる。
あるいは全く同じことを、
全然違う言葉や処理で実現している場合もある。

前記事では学校と塾の例を出した。
僕が理系を好きになったのは、
全く同じことを扱っているのに、
アプローチが全く違うときがあることだったかもだ。

複数のやり方を、いきなり学ぶと、
体系だたないから混乱する。
ある程度体系が自分の中に作られてから、
その体系自体を修正しながら学んでいくといい。

空手ベースで柔道や総合をやっても、
柔道ベースで空手や総合をやっても、
同じところにたどり着くみたいなことだ。

勿論得意なベースは、最初に学んだことが生きてくる。


だから最初に学ぶ教師はとても大事なんだよね。
ここの脚本論がそのようになれてるととてもいいけど、
どやろね。

複数の教師から学ぶことは、
そのような効用と危険性がある。

いずれにせよ、
最も厳しくて確実な教師は、
自分の失敗経験であることは、
どのオペレーション学習でも同じだと僕は考える。
posted by おおおかとしひこ at 13:19| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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