漫画は絵なので、余白を作れる。
実写には余白はない。
余白を作るのは、画面を整理することだ。
そこにあるものだけを強調し、
他にないものを捨てること。
日本は屏風絵など、
伝統的に、「描かない」という余白の美を描いてきた。
行間という言葉もある。
秘するが花の世阿弥の伝統だ。
昔ジャンプ全盛期の夜明けごろ、
本宮ひろ志が「赤龍王」という三国志をやっていて、
中二の頃の担任が、
「ここの空に何も描いていないことが素晴らしい」
と激賞していたことを思い出す。
雲が描いてないのに雲を感じる。
風を描いていないのに風を感じる。
これが絵の力だと。
最近の漫画家は、余白を使うのが下手だと思う。
アシスタントに空を描かせてしまうのかね。
トーンワークでいかに美しい雲を描いても、
何も描いていない空が語ることに負けることを知らないのかも知れないね。
さて実写だ。
実写は実在だ。
だから、背景に何もない、ということはない。
何かの風景、モノが必ず写る。
フォーカスでボカすか、
空を写すかだけど、
空はピーカン(快晴)じゃない限り雲が写るし、
ボカしたってそこになにかあることに代わりはない。
つまり、完全な余白を使うことは出来ない。
CMでは伝統的に余白を使うときは、
高いところに登って青空バックを使う。
土手、屋上、歩道橋、海、草原などがよく使われる。
都会には空がないから、
わざわざそういうところに行く。
で、気に入らない雲があったら、
空を合成することもよくある。
意図的に、「何もない」を作り出したりしている。
この空間に二人きり、という表現を作ることは難しい。
周りに余計な実在が写ってしまうからだ。
だから空を上手く使ってツーショットを撮ることが多い。
土手、海、川岸の柵などに立たせて、
空を背景に持ってくるなどがよく使われる。
専門用語でヌケという。
ヌケがたくさんある背景は、
余白に使える。
「エターナルサンシャイン」のキービジュアルは、
池の氷の上で寝ている二人を、
真俯瞰から撮ったもので、
つまりは白い氷を空がわり、余白として使っているわけだ。
似た構図に、ベッドに横たわる二人を、
真俯瞰で捉えたものがある。
これも余白をなるべく作るために、
真っ白いシーツを使うのが基本だね。
余白は白く飛ばしぎみにする。
これもライティングの基本だ。
色々な複雑なモノは整理する。
ここまでやっても、漫画の余白には勝てない。
アニメも実写同様背景が必要なのだが、
まだアニメには色バックを使う手が残されている。
実写で色バックや白バックを使うことは、
CM以外にほとんどない。
CMは、商品を白バックにおいたり、
タレントを色バックにおいたりして、
他を余白として強調する表現をよく使う。
(そして大抵カメラ目線だ。強調するからだね)
漫画ではカメラ目線はほとんどない。
一応第四の壁の原則は守られる。
表紙など特別な絵はカメラ目線が多いけど。
さて。
これらは絵に関する話だ。
それを使う表現ありきの内容の方が、
絵にあうというわけだ。
つまり、余白を多く使う漫画は、実写にはしにくい。
記号化がはげしいため、
全てを具体で実在のもので撮る映画とは、
相性がわるい。
たとえば絵本の映画化は、大抵絵本の方がいい。
想像が膨らむぶん、余白が多い絵本の方が勝ちである。
つまり、絵本の方が内容において、創造力を使う内容になっている。
逆に実写では、実在の役者の焦点に重きを置かなくてはならない。
想像する余地は、絵の余白ではなく、
「この先の展開」である必要がある。
昨日あらためて原作風魔の、
「霧風が霧を発生させる絵」を見たのだが、
実写はどう撮ってもこの余白の美を表現できない、
と悔しかった。
この真っ白の部分に思う想像、妄想は実写にはない。
漫画ならこの絵を一時間眺めることは可能だが、
実写では数秒のカットでしかなく、
次のカットへ行ってしまう。
つまり、真っ白の余白への想像は、
実写にはない。
その代わりドラマ版では、
霧風の気持ちへの想像、という別の余白を作ることで、
このカットの代わりとしている。
実写は実在するから、
目で見えないところが、想像の余白となるのだ。
漫画は、実在しない余白を作れる。
それが両者の違いである。
そういえば、20年やってて、
初めて先日白バックで人間を撮った。
人の芝居というものは、周囲にあるものに文脈を頼るのだな、
という、ごく当たり前の結論を得た。
実写は、実在しないものを想像するのが本質。
「エイリアン」は、エイリアンが出てないときが一番怖い。
2017年11月09日
この記事へのコメント
コメントを書く