逆に実写の強みは、
「ほんとうにそこで撮っている」ということだ。
分かりやすいのは、
「高い所での危険な撮影」だろうか。
「ミッションインポッシブル2」の冒頭、
ロッククライミングなんかは本当に撮っている。
「ミッションインポッシブル:ゴーストプロトコル」での中盤、
ドバイタワーのアクションは手に汗握る。
アクションだけではない。
ラブストーリーにおいては、
「どれだけ素敵な場所で愛を語るか」は大変重要だ。
美しい夕日、おしゃれな場所、
解放感のある場所、二人の思い出の場所、
逆に最悪な場所が素敵な場所になる瞬間。
何度か書いているが、
「アニーホール」のラスト近辺、
ロブスターが冷蔵庫の裏に逃げたことすら、
美しい思い出になるのだ。
逆に文脈によっては、最高の場所が最低な場所にもなりうる。
成田離婚なんてそうだろうね。
あるいは最近絶賛した「ルーム」。
詳しくは書かないが、
ラスト近辺の「ルーム」の見え方。
これは実在の場所、実在の物体の強さだ。
漫画じゃ、「絵じゃん」てなるだろうね。
「今までカメラが入れなかった場所」を撮影すると、
それだけで面白いことになる。
ルーブル美術館とか、
皇居とか(無理だろうけど)、
宇宙とか。
少し前に山岳映画の流行りがあったけど、
それは見たこともない光景をカメラが捉えるからだ。
そもそも海外旅行が今ほど一般的でなかった時代、
洋画は憧れでもあった。
海外旅行のパック化に伴って、
外国映画への憧れは、徐々に落ちている。
それでも滅多に見ない、パリやロンドンやヨーロッパ、
南米などはまだ憧れの地だろう。
ハリウッドやニューヨークはだいぶ見飽きたよね。
テキサスとかシカゴとかは、行きたいけどね。
あるいは、
「東京ラブストーリー」を思い出してもよい。
これはある種の「東京」への憧れを利用している。
漫画版では記号でしかなかった東京が、
実在の場所で撮影される。
それが特に地方の人にとっては、
強烈な憧れになっただろう。
俺、今でも芝公園から東京タワーを見ると興奮するし。
同じく織田裕二繋がりでいえば、
「湾岸」というほぼ架空の地区を舞台にしたのもあった。
実際の湾岸は汚いボロボロの場所だけど、
踊る大捜査線では、なんだか新しい東京に見えていた。
(今やフジテレビお台場近辺は、廃墟寸前だ)
実在の場所を舞台にしなくても、
ただのレストラン、ただの歩道橋、
ただの交差点、ただの縁側が、
ロケ地として聖地になることは全然ある。
それは、「場所への思い」が確実に人にはあるからだ。
こういうことは、漫画ではなかなか難しい。
僕が「リンダリンダリンダ」で一番好きなカットは、
後半に出てくる、
誰もいない校舎を写した、なんでもない一連のカットだ。
そこにあるものが、実在のものが、
私たちに語りかけてくれる。
つまりそれは、逆の意味で余白になっている。
漫画は何も描かないことで、余白をつくる。
実写は、そこにあるものに語らせて、余白の代わりにする。
実写表現の方が、
一段凝っているのだ。
それを場所だけでなく、
小道具にすることも出来る。
形見や、好きな人がくれたものなどは、
典型的な思い入れのある実在だ。
主人公の乗るクルマやバイクや、
使ってる銃や吸うタバコやライターに、
憧れをもったこともあるよね。
あるいはストーリーに直結する小道具も色々ある。
なんでもない日常の小道具が、
とても思い入れのある瞬間を描いたのは、
「アパートの鍵、貸します」という古典中の古典だ。
テニスラケットの哀しさよ。
実写は実在である。
モノに込めた思いのようなものを扱う。
背景セットも、小道具も、
美術という同じパートの担当だ。深いねえ。
(映画美術は最近予算が減ってきて、
壊滅の危機にあるらしい。みんな、美術会社に就職しよう!
モノへの思い入れを表現できるぞ!)
2017年11月09日
この記事へのコメント
コメントを書く