2017年11月09日

【カタナ式】配列難民

という言葉があるそうな。
それは存在しないエルドラドを探す放浪者かも知れない。


「現在のこれはイマイチで、
もっと合理的な、夢のようなものがあるかもしれない」
と、どうしても思ってしまう。

どんな配列も、どこかしら綻びがある。
完璧な配列があるかはなんとも言えないけど、
その綻びだって個性だよね。
人間と同じでね。

じゃあ仮に、どういうのが理想か考えてみる。
最小のエネルギーだとすると、
人差し指一回押すと、思考している文字が打てるキーボードだとしよう。
運指の辛さがないと考える。
悪運指がひとつもない理想だ。
しかしながら、
一万字書くには、一万回打たないといけないのだ。

(勿論ステノワードのように短縮入力を採用すればいいが、
ステノワードの集中力は一時間だという)

何が言いたいかというと、
手書きだろうが、タイピングだろうが、
そもそも大量の文章を書くこと
=大量の思考をしてそれをきっちり纏めること
が、苦痛なのであり、
それを魔法のようにショートカットすることは出来ない、
ということである。

「すらすら書ける」のは、
書くべきことが既にある時に限る。
そしてそんなことはあんまりないから、
書けない時間の方が長い。

勿論、腱鞘炎を避けたりしたいという物理的要求のために、
運指合理の配列を探すことに異論はない。
けど、
そもそも無駄な一万字を書くなら、
洗練された400字を書いた方が、
そもそも書くという行為なのではないかなあ。

(これは創作打鍵の話で、
文字起こしとか、書類を打ち込まないといけない仕事の人は考慮していない)

配列が書くのではない。
自分が書くのだ。
手書きで一万字書かない人は、
タイピングでだって書けないよ。

凄い配列が、自分の文章をスラスラ後押ししてくれるわけはない。
それは存在しないエルドラドだ。
むしろ自動書記を促す悪魔のペンではないか。

キーボードも配列も、
自分の意思を伝える道具に過ぎない。
糸電話の糸と同じ種類のものである。

そもそも書くべきものがないときに、
配列だけいじってもしょうがない。
人を斬らない侍が、刀だけ収集しても意味がない。
まずは人を斬れ。
数を斬ってから、そののち効率を求めるがよい。



ちなみに、人は、
今自分がやっていることがベストだと確かめたくて、
他を試すという性質がある。(浮気の原理)
僕が下駄配列を試しているのもまさにそれで、
カタナ式よりもカナ配列は効率が悪い、
という仮説を確かめたくて触っている感じだ。
それでも下駄配列のほうが良ければ、勿論自説は覆る。
エルドラドはあるのか。
posted by おおおかとしひこ at 12:11| Comment(0) | カタナ式 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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