2017年11月13日

「書きたいテーマ」は間違いだ

すーざんさんのコメントを見ていて論じたくなったので。

僕は、世間がよくいうところの、
「書きたいテーマ」「いいたいこと」というものを中心に、
物語を書くのは間違いだと考えている。


書きたいテーマや言いたいことは、「主張」である。
主張したいなら、論文や寄稿文や著書を書くといい。
ネットでブログやツイッターをやってもいい。

物語は主張ではない。
ある主張があり、それが妥当であると示すものではない。

もしある主張が確からしいなら、証明の必要はなく、
自明のことである。
だから主張することは意味がない。
「1+1=2だ!」と主張することに意味はない。

だから、主張というのは、
これまで真と思われていなかったことを、
新しく証明することだ。

したがって、
その主張が成立する条件を提示し、
ありうる反論に対して、
ひとつずつ論破していくことだ。
論文というのはそういう風に書く。
普通こうだと思われていることを、
実証的に、統計結果や数学的証明を使いながら、
反証していくのが骨格である。
だから、普通こうだと思われることへの、
反証→それへ起こりうる反論→さらにそれへの反証
→……
という構造で成り立つ。
それで、全てのあり得る反論へ反証しきったとき、
その主張はたしかに真であると結論づけられる。

ふつう、主張はそのようになされる。

ところが、
物語の構造はそうではない。
ある事件が起きて解決するまでのおはなしであり、
ある空想の主張が正しいことの証明ではない。
妥当な反論はないし、
それへの反証も存在しない。
アンチテーゼは出て来るが、
それはやられ役でしかなく、
つまりはテーゼが最初から勝つための嘘だ。

つまり、
物語があることを主張するのだ、
というには、
あまりにも論考が脆弱で恣意的なのである。

そりゃそうだ。
作者の手腕ひとつで、
どんな主張もすることが出来る。
アンチテーゼを倒せばいいからだ。
もちろんリアリティや説得力やもっともらしさは必要だ。
しかし、それは厳密な検証を経なくていい。
もっと本質を言えば、
それは詭弁で構わない。
詐欺でも構わない。

物語のテーマを主張だとすることに、
僕は反対である。
戦争賛美を物語形式で描いた、戦中映画はたくさんある。
それは洗脳の道具になりえる。
論理的反論は、物語の中では封じることができるからだ。


ストーリーのテーマとは、
自然に導かれる程度のものだ。
このストーリーをあるテーゼにまとめると、
最もまとまる、というものが、
偶然テーマになるに過ぎない。
むしろ、最後まで書いてみないと、
その「まとめるもの」に気づかないことすらよくある。

脚本や小説の入門書に、
「言いたいテーマをまとめてからプロットに進もう」
なんて書いてあるやつを信用してはいけない。
中学や高校の弁論大会の指南書なら信用してよい。

言いたいテーマを探すと、
現実への説教になる。
もしそれが論理的、実証的真実であるならば、
今すぐ論文を書いて発表するとよい。
しかし論理的実証的背景を持たない、
ただの説教ならば、
それはブログでやればよい。
現実への説教を、誰も見たくない。
論理的、実証的にやったとしても、
痛いことは見たくない。

じゃあ、
通りのいいことを言えばいいのか。
そういうものは沢山ある。
マーケティングされたエンタメ作品と呼ばれるものだ。
これは体のいい麻薬だ。
あなたは悪く無い、いつか幸せが必ず来る、という主張で、
思考停止して安心させる、安楽剤にすぎない。
女子供むけのものにこういうものが多い気がする。
現実を肯定してほしい人たちが、
それ目的で見る。
キャバクラに金を払うのと同じことをしているだけだ。


ストーリーは主張するためにあるのではない。
喰いやすい幻想を売るのでもない。
言うまでもない正論をぶるのでもない。

たまたま、そのテーマにまとまったものが、
テーマにすぎない。
しかし、そのテーマが言おうとしていることは、
たいてい、現実に足りないなにかだったりする。
それは我々が現代を生きているときに思う無意識のことだからだ。
それが時代の空気と一致したとき、
それは、世間にとって素晴らしい物語となるだけのことだ。


テーマは主張ではない。
だから、「書きたいテーマ」なんて言葉は、
そもそも間違っていると思う。

こういうテーマにまとまるこういう話を書きたい、
という意味なら、「書きたいテーマ」という言葉が出て来るだろうけど、
そういうときは、書きたい骨格やディテールがある時だから、
わざわざ「書きたいテーマ」とは言わないだろう。
ということは、
「書きたいテーマ」なんて言っている段階で、
そもそもそれはたいして面白くない、
ただの説教話になっている可能性がある。

説教話では、
仏教の説話物語がある。
古来、宗教は物語形式で教えを広めてきた。
因果応報、一期一会などは、
説話から広まった、日本人特有の人生観であるかもしれない。
それは、新しい主張だった。
説話自体は、たいして面白くないことが多い。
posted by おおおかとしひこ at 19:17| Comment(3) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
大岡様 ありがとうございました。厳しいですが、読んだ後に感じ入りました。私は説教や自己主張、啓蒙がしたいわけではありません。面白い物語が作りたい、それだけです。世には、その場は面白いけれども、後で何も残らない物語もあります。また観たい、どんな意味だったのかな?と考えたくなるのは、やはりテーマ(作者のエゴではなく)があるからではないか、そう思うのです。自分の作品は面白いのか、まとまっているのか、等々不安を感じて、相談させていただきました。ここで書かれていること、肝に命じて作り直します。読み手の立場からしたら、で、面白いの?どうなの?だけですよね。
Posted by すーざん at 2017年11月14日 03:35
見る人にとって、それを作った人が、
したかったことかどうかはどうでもいいことです。
(したかったことだと、ノリが最高というプラス面と、
独善的であるというマイナス面があります。
頑固なラーメン屋をイメージするといいかな)

書きたいテーマ、ではなく、
好きなテーマ、と言い換えると楽になれますね。
主張すべきかどうかよりも、
好きなことを広めて行くのだ、
と考えると肩の力が抜けます。
好きなことを語る人は大抵魅力的になるものですから。

あとはそれが面白いか面白くないかです。
Posted by おおおかとしひこ at 2017年11月14日 12:32
大岡様 返信本当にありがございました。気持ちが楽になりました。その気がなくとも、大仰に構えていたかもしれません。面白いか、面白くないかを客観的に(冷静に)判断できることが、すなわちプロなのでしょうか。やはり、道のりは遠いです。精進します。
Posted by すーざん at 2017年11月15日 01:25
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。