先人は何を失敗し、先人は何を学んできたのか、
シリーズ2本目。
カット割りを獲得して、映画は演劇と違うものになった。
初期のストーリーは、演劇をそのまま全舞台を映したものだ。
しかもワンカットでだ。
そこに、役者の顔をアップで抜く、という発明をした奴がいる。
レンズの焦点距離を変えても、カメラが近づいても、どちらでもよい。
(どちらが正しいアップのやり方かについては、撮影論になるのでここでは省略する)
すなわち、編集だ。
それがない時の編集は、
切れたフィルムを物理的に修復するものでしかなかった。
しかし、ハサミとノリで、
別々のフィルムをつなぐということを発明したのだ。
最初は、引き→アップ→もとの引きに戻る、
という単純なものだっただろう。
それが、ミドルサイズ、ツーショット、大ロング、目や手のクロースアップ、
などに細分化していくことは容易に想像できる。
この時に発見されたことは、
「絵には的確なサイズがある」ということだった。
役者の顔をアップで見ることは、その人の気持ちをより観察したい、
つまりその人の気持ちに寄り添いたい時だ。
ツーショットを見ることは、二人の関係性に注視したいときだ。
全景を見たいのは、背景文脈と人間の関係を見たい時だ。
つまり、サイズによって注視範囲が変わる、
ということが、「サイズを変える」ということの発見だった。
逆にいうと、
「ストーリーは、注視範囲を変えながら進んでゆく」
ということが発見されたというわけだ。
小説ならば実現できていて、
演劇ではできなかったことが、
サイズを変えるという編集行為によって可能になったというわけだ。
次にすぐ思いつくのは、
それを騙しに使うことだ。
「アップの間に、見えない部分が変化している」
というトリックを使うのは手品の常道である。
ある別のものに注視させているうちに、
驚きや意外性をしこむわけである。
つまり、
「注視範囲をコントロールすることで、
そこで起こっている文脈に対し、
別の文脈を意図的に作ることができる」
ということが、編集行為の発見であったのだ。
さらにいうと、
「実際に起こっていること」
「作者が表現しようとしていること」
のふたつは別々のものであり、
同じイベントから、
全く別の映画的ストーリーをつくることができる、
という発見であったといってよいだろう。
(これは同じ運動会を撮影しても、
カメラによって別のところを写している、ということだ。
運動会は徒競走の決勝にみんなが注視していても、
お父さんカメラはその前に破れた息子を追い続けているかも知れない)
つまり、カメラは真実を追うこともできるし、
追わないことも出来るということ。
逆に言うと、
カメラが追い、編集されたものが、
その作者が思うストーリーだと言うことである。
これは、観客に向けて開いた演劇にたいして、
一人の解釈者を挟むということを意味する。
原作の映画化をするときは、
これは常に問題の焦点になる。
「どこをどのように注視範囲とするか」は、
すなわち原作をどのように解釈するか、
ということに他ならない。
昨今の下手くそ実写化は、
まずは編集と言うものの根本を学んだ方がいいのではないか?
さて。
今空間方向だけを論じたが、
これを時間方向に考えることもできる。
つまり、現在普通に言われている「編集」だ。
たとえば失敗したところをカットする。
冗長な部分はカットする。
放送できない不適切部分はカットする。
あるいは、手品とかをやるときに
「編集がないことをご確認ください」というやつ。
編集があるから意図的に作ることが出来るし、
その意図を介在させない為には、
ワンカットでやればいい。
(勿論、映画におけるワンカットは、
何度も練習して、何度も撮り直すのだが。
しかしそこに生の時間が流れている、
ということは変わらない)
微視的な編集以外にも、
巨視的な編集もある。
ある題材に対して、描くところと描かないところの、
取捨選択をする行為がそれだ。
運動会でいえば、
準備からカメラを回すことも出来るし、
片付けや撤収まである。
あるいは、小学校六年間の運動会を追ってもよい。
その題材への解釈。
それが空間的注視範囲、時間的注視範囲を決めることだ。
この選択=解釈が間違っていたり、
ぐだぐだだと、中身はぐだぐだになる。
何故なら、意味のないパートがあったり、
足りないパートが出てきたり、
破綻が出てきたりするからである。
つまり、「解釈」というものの以上、
「おれはこれをこのようなものだと思う」
ということが存在し、
それと現物が破綻を来していないか、
チェックする必要が出てきたというわけだ。
仮に、浦島太郎を亀の話だと解釈するならば、
何故亀は浜辺に行ったのかという前提や、
浦島を連れてきたあとどうなったのかという、
亀としてのストーリーが描かれなければならない。
情報がないなら創作してでも補うべきだ。
そして、「結局この亀の話は何だったのか」
という解釈の中心を決めなければならない。
すなわち、
解釈がある以上、結論が必要だ。
これをテーマという。
映像は編集という行為を獲得することで、
テーマという自動的についてくるものに対して、
態度を必然的に決めなければならないのだ。
これを知らないYouTuberたちは、
「やってみた」だけだったりする。
いかに(物理的には)編集されていたとしてもだ。
あるとしたら、「面白くあそんだ」でしかない。
あるいは、糞実写化された糞映画は、
原作に対して、映画版はこのような意味合いである、
という解釈の態度を決めていない。
(あまりにも幼稚な態度を決めた実写版「ガッチャマン」の例もある。
原作の科学をどう扱うべきかという大きなテーマに、
何一つ触れていないただのうんこだ)
あるいは、
「ただ面白ければいいのさ」と、
撮りっぱなし投げっぱなしのものもある。
しかしこれは、見世物の時代に戻ることを意味する。
「編集」ということを知らない無知の開き直りだ。
編集行為によって、
映画は解釈とテーマ(存在意義)を得た。
勿論、小説的物語、演劇的物語も同じくであろう。
編集行為によって、
映画は見世物から物語に格上げされたのだ。
編集=モンタージュという行為は、
グリフィスが始めたと言われている。
故に映画の父と呼ばれていると。
映画の母は、見世物だ。
先祖は、小説や演劇という物語だ。
父はそれらに編集という精子を注入し、
映画という子を産んだ。
ちなみに、モンタージュ理論は、
その後エイゼンシュテインなどによって研究され、
花開くことになる。
ここでは詳細に深く立ち入らない。
さて。
映画は編集によって、解釈というひとつの流れを得た。
無能なバカは、解釈もない現実のカオスを拡大再生産しているだけだ。
次回は、切り返しと第四の壁について。
2017年11月14日
この記事へのコメント
コメントを書く