映画はカット割を得て、演劇と袂をわかつ。
それは、第四の壁を切り返しで突破したからだ。
演劇には、第四の壁というものがある。
なんのことだろう。
演劇では、お客さんに尻を向けてはいけない。
顔を見せなければいけない。
これは、劇場というものの構造の問題だ。
舞台があり、客席がある、
その境目(イマジナリラインと映画では言う)がある。
勿論円形劇場など例外はあるが、
これらの例外は、普通の舞台構造を変革しようとして出来たものである。
さて、つまり、演劇は、前を向いて芝居をしなければいけない。
これは、時たま不自然になる。
不自然というのは、人々は常に同じ方向を向いていないからである。
ところが、その人が何か言う、するとき、
お客さんに向けて芝居しないといけないから、
(不自然にも)前を向いてすることになるのだ。
しかしながら、ストーリーを進める上では、
それはなかったことにして見るのが演劇というもののルールだ。
お尻を向けて芝居されても、
「よく見えない」からである。
この、前を向いてする、演劇の特徴を、
「第四の壁に向かって芝居する」という。
舞台を部屋に例えると、
左右の壁、奥の壁はセットとして存在するが、
手前の壁は透明だという約束になっている。
観客は、
壁が三つしかない部屋がある、
という見方をするのではなく、
四つ壁があるけど、手前の遮蔽物である壁は、
今は見えていないものとして見る。
役者は第四の壁に向かって芝居する。
それは、壁に向かって喋っているわけではない。
お客さんに話を見えやすくしている。
何故か二人が会話するときも、
二人ともお客さんに向けて話をする。
第四の壁に向けている。
これは、演劇のお約束なので、誰も不思議に思わないことになっている。
しかし厳密には変だ。
リアルではないからだ。
リアルではないということは、
様式ということだ。
さて、映画は、編集によって、
この様式をリアルに変えた。
カット割をすることで。
カット割の基本、カットバックによってである。
カットバックとは、今さら説明するまでもないけれど、
AとBの会話シーンで、
AのアップBのアップを別々に撮り、
編集することによって、会話している様を表現することだ。
二人は普通向かい合って、顔を見ながらしゃべる。
しかし演劇ではこれは出来ない。
映画で言えば、二人は向かい合いながら横の壁を向いてしゃべることになる。
この様式(不自然)を自然にしたのだ。
カットバックによってである。
映画に第四の壁はなくなった。
部屋の中でしゃべるとき、
壁は4つ必要になった。
透明な壁などない。
(厳密には第四の壁が映画にはある。
カメラ目線は存在しないという問題だ。
これは別の話なのでどこかで議論する)
Aがしゃべるとき、奥の壁、左右の壁が必要だ。
Bがしゃべるとき、同様。
つまり、カットバックという編集行為の誕生で、
第四の壁は消えた。
「二人が第四の壁に向かって会話する」様式(不自然)を、
「二人が普通に目をあわせて会話する」
ように改変したのである。
これは凄い進歩だ。
どういうことかというと、
「演劇は様式であるという了解のもとに成り立つ。
しかし、映画はリアルであると錯覚させる」
ということである。
昨今、映像は進歩を遂げている。
やれ4Kやれウルトラハイビジョンやれ4DX。
それらはすべて「リアル」を求めている。
映像は、その誕生の瞬間から、
リアルを感じさせなければならない、
という宿命にあると言っても過言ではない。
「様式に別れを告げた」が、
映像の宿命なのだ。
この本質を見誤った、無知無能は、
この先人の努力を知らない。
だから、
ご都合主義のストーリー、
リアルじゃないストーリー、
お約束ばかりのストーリーを、
作っているのである。
ご都合や様式がやりたければ、
演劇をやれ。
(もっとも、演劇は演劇で別の歴史がある。
ここでは立ち入らない)
カメラは実写だ。
実際の風景と人間を写す。
そこに様式美はない。
全てがリアルだ。
だからリアルじゃないのは、映画じゃない。
リアルなマテリアルでリアルを表現するのが、
映画である。
一方、
表現マテリアルがリアルでない場合も、
人はリアルを感じることが出来る。
たとえ人形のコマ撮りでも、
コンピューターの計算結果であるCGにも、
我々はリアルを感じることが出来る。
それを「見立て」という。
マテリアルがリアルかリアルじゃないかが問題ではなく、
「その内容にリアルを感じるか?」
という問題だ。
(反証例を「不気味の谷」現象に見ることが出来る)
ここに来て、映画と演劇と小説は再統合される。
これらは表現マテリアルの違いでしかなく、
「そこにどんなリアルがあるか?」
を競うのが、これらなのだ。
さらに言うと、これらの歴史において、
「こういうリアルがあるよね」という、
「新しいリアル」を作ったものが、
歴史を更新するのだ。
だから人工知能にストーリーは書けない。
今まであったものを真似することは出来る。
しかし、「こういう新しいリアルが存在する」
と発見、提案、創作することは、
人間のリアルをどう再発見、新発見するかということにかかっているからである。
(人工知能にとっての新しいリアルは可能かも知れない。
そういうSFは面白そうだねえ)
このことを知らない無知無能は、
かつてあったものの再生産しかしない。
「受けたから」という理由で、
似たようなものの劣化版ばかり量産している。
歴史が変革してきた経緯を知らないわけだ。
新しいリアルとは何か、
手あかのついていない、次のリアルとは何か。
映画とは開拓のことである。
ちなみに書き忘れたけど、
カットバックのことを日本語で切り返しという。
切り返しという編集行為が、
第四の壁を崩した。
リアルを持ってきた。
そしてこれは、物語の本質に関わることを炙り出すことになる。
次回、切り返しと対立構造へ続く。
2017年11月15日
この記事へのコメント
コメントを書く