2017年11月15日

映画の歴史3: 切り返しと第四の壁

映画はカット割を得て、演劇と袂をわかつ。
それは、第四の壁を切り返しで突破したからだ。


演劇には、第四の壁というものがある。
なんのことだろう。

演劇では、お客さんに尻を向けてはいけない。
顔を見せなければいけない。
これは、劇場というものの構造の問題だ。
舞台があり、客席がある、
その境目(イマジナリラインと映画では言う)がある。
勿論円形劇場など例外はあるが、
これらの例外は、普通の舞台構造を変革しようとして出来たものである。

さて、つまり、演劇は、前を向いて芝居をしなければいけない。

これは、時たま不自然になる。
不自然というのは、人々は常に同じ方向を向いていないからである。
ところが、その人が何か言う、するとき、
お客さんに向けて芝居しないといけないから、
(不自然にも)前を向いてすることになるのだ。

しかしながら、ストーリーを進める上では、
それはなかったことにして見るのが演劇というもののルールだ。
お尻を向けて芝居されても、
「よく見えない」からである。

この、前を向いてする、演劇の特徴を、
「第四の壁に向かって芝居する」という。
舞台を部屋に例えると、
左右の壁、奥の壁はセットとして存在するが、
手前の壁は透明だという約束になっている。
観客は、
壁が三つしかない部屋がある、
という見方をするのではなく、
四つ壁があるけど、手前の遮蔽物である壁は、
今は見えていないものとして見る。

役者は第四の壁に向かって芝居する。
それは、壁に向かって喋っているわけではない。
お客さんに話を見えやすくしている。

何故か二人が会話するときも、
二人ともお客さんに向けて話をする。
第四の壁に向けている。

これは、演劇のお約束なので、誰も不思議に思わないことになっている。
しかし厳密には変だ。
リアルではないからだ。
リアルではないということは、
様式ということだ。


さて、映画は、編集によって、
この様式をリアルに変えた。
カット割をすることで。
カット割の基本、カットバックによってである。

カットバックとは、今さら説明するまでもないけれど、
AとBの会話シーンで、
AのアップBのアップを別々に撮り、
編集することによって、会話している様を表現することだ。
二人は普通向かい合って、顔を見ながらしゃべる。
しかし演劇ではこれは出来ない。
映画で言えば、二人は向かい合いながら横の壁を向いてしゃべることになる。
この様式(不自然)を自然にしたのだ。
カットバックによってである。

映画に第四の壁はなくなった。
部屋の中でしゃべるとき、
壁は4つ必要になった。
透明な壁などない。

(厳密には第四の壁が映画にはある。
カメラ目線は存在しないという問題だ。
これは別の話なのでどこかで議論する)

Aがしゃべるとき、奥の壁、左右の壁が必要だ。
Bがしゃべるとき、同様。
つまり、カットバックという編集行為の誕生で、
第四の壁は消えた。

「二人が第四の壁に向かって会話する」様式(不自然)を、
「二人が普通に目をあわせて会話する」
ように改変したのである。


これは凄い進歩だ。
どういうことかというと、
「演劇は様式であるという了解のもとに成り立つ。
しかし、映画はリアルであると錯覚させる」
ということである。

昨今、映像は進歩を遂げている。
やれ4Kやれウルトラハイビジョンやれ4DX。
それらはすべて「リアル」を求めている。
映像は、その誕生の瞬間から、
リアルを感じさせなければならない、
という宿命にあると言っても過言ではない。
「様式に別れを告げた」が、
映像の宿命なのだ。


この本質を見誤った、無知無能は、
この先人の努力を知らない。
だから、
ご都合主義のストーリー、
リアルじゃないストーリー、
お約束ばかりのストーリーを、
作っているのである。

ご都合や様式がやりたければ、
演劇をやれ。
(もっとも、演劇は演劇で別の歴史がある。
ここでは立ち入らない)

カメラは実写だ。
実際の風景と人間を写す。
そこに様式美はない。
全てがリアルだ。

だからリアルじゃないのは、映画じゃない。
リアルなマテリアルでリアルを表現するのが、
映画である。

一方、
表現マテリアルがリアルでない場合も、
人はリアルを感じることが出来る。
たとえ人形のコマ撮りでも、
コンピューターの計算結果であるCGにも、
我々はリアルを感じることが出来る。
それを「見立て」という。

マテリアルがリアルかリアルじゃないかが問題ではなく、
「その内容にリアルを感じるか?」
という問題だ。
(反証例を「不気味の谷」現象に見ることが出来る)

ここに来て、映画と演劇と小説は再統合される。
これらは表現マテリアルの違いでしかなく、
「そこにどんなリアルがあるか?」
を競うのが、これらなのだ。
さらに言うと、これらの歴史において、
「こういうリアルがあるよね」という、
「新しいリアル」を作ったものが、
歴史を更新するのだ。

だから人工知能にストーリーは書けない。
今まであったものを真似することは出来る。
しかし、「こういう新しいリアルが存在する」
と発見、提案、創作することは、
人間のリアルをどう再発見、新発見するかということにかかっているからである。
(人工知能にとっての新しいリアルは可能かも知れない。
そういうSFは面白そうだねえ)


このことを知らない無知無能は、
かつてあったものの再生産しかしない。
「受けたから」という理由で、
似たようなものの劣化版ばかり量産している。
歴史が変革してきた経緯を知らないわけだ。
新しいリアルとは何か、
手あかのついていない、次のリアルとは何か。
映画とは開拓のことである。


ちなみに書き忘れたけど、
カットバックのことを日本語で切り返しという。

切り返しという編集行為が、
第四の壁を崩した。
リアルを持ってきた。

そしてこれは、物語の本質に関わることを炙り出すことになる。
次回、切り返しと対立構造へ続く。
posted by おおおかとしひこ at 13:36| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。